
【連載】「任閑遊」五 松井正樹

現役のころは秘匿にしておいたが、定年を迎えて、やや積極的に披露しはじめたことがある。
『私はテナー・サックスの演奏を練習している』という秘め事。
この打ち明け話を聞いて、「あ~、そうなの」と簡単に受け流す方もいれば、「え~、聴いてみたいなあ」と突っ込んでくる方もいて、だいたい半々に分かれるけれど、当の本人は『しまった、話すんじゃなかった』と後悔することが何度かあった。
所詮は自分の趣味の話であり、いかに額に汗して頑張っていたとしても自己満足のこと、他人様は傍観者であり続ける。だから、初めて名刺交換した時と同じような反応になる場合が多く、下手すると新たな壁が立ちはだかったりする。
ちょっとした承認要求を満たす感覚を味わいたいだけなのに、この種の裏話を振り込んだ途端に、「いや~、自分もブラスバンドやっていたんですよ」「コンボ系ですか? じゃ、いつかご一緒しましょう」・・・と連打を浴びてマウント取られることもあるので、最近は打ち解けた雰囲気になれた時に「ところで、何か老後のための趣味とかやっている?」と前振りしてから、ジワリと告白することにしている。
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40歳代終盤になって、どうしてテナー・サックスという楽器に手を出すようになったのか? 最大の動機は、やがて到来する老境期に備え、“ボケ防止のための脳トレ”に取り組まなければならんという強迫観念があったからである。どうせなら楽しいことにチャレンジするべしと思い、あれこれ思案してみた。脳トレならやはり音楽系かなと漠然と感じていたところ、テレビで拝見した松本英彦氏のサックス演奏シーンに感銘を受け、『かっこいいな。これだ』と納得した。もともとジャズは大好きなジャンルだったこともあり、顔面をくしゃくしゃにしてステージ上で吹きまくる自分の姿を妄想しては、早く楽器を手にして練習を始めたいという気持ちだけは日増しに高まっていった。
そんな思いを抱えていた頃、ぶらりと新宿ピットインに立ち寄ったとき、『サックス講師始めました。生徒募集中』という張り紙を目にした。しかも、当の講師プレイヤーと話をする時間もあって、同調され、持ち上げられ、結局「リコーダーができるなら、大丈夫ですよ」の一言が決め手となって、まっさらな楽器ケースを背負う練習生としてスタートすることになったのである。でも、その時は嬉しかった。まるで、長年の懸案が解決に向けて動き出したような感じで、不思議な幸福感に包まれていた。紹介された楽器店にも、へそくり預金を引き出して意気揚々と足を運んだのを思い出す。
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10年ほど前から、定期的にプロ奏者のレッスンを受けることにして、方向性を“スタンダード曲をトリオ伴奏で演奏する”に定めて練習を進めている。このように書くと、今やさぞかしの腕前であろうと想像する方もおられるのではなかろうかと危惧するのだが、現実はそんなに甘くない。正直申し上げて、遅々として上達の兆しが見えないのである。
コード(和音)もスケール(音列)も一応はマスターしており、時間をいただければ譜面も正確にさらえるのだが、リズムセクションを抱えて楽曲を演奏するとなると、別次元のセンスが要求されてくるようだ。〈リズム感〉であり、〈歌心〉であり、〈合わせる気持ち〉であると指摘されるけれど、これらを克服するための方法書は見当たらない。
そこで、今の師匠の勧めもあって、市内のライブハウスで定期的に開催されているジャム・セッション(誰でも参加できる演奏会)に顔を出して、実地で訓練していくことにした。これはとんだ冒険に違いないとは無頓着な私にも理解できたが、ボケ防止のためと言い聞かせて、飛び込んでみることにした。
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ジャム・セッションに集まる方々は熟練者ばかりであり、時にプロ活動されている達人も顔を出す。風貌を拝見するだけでそうだと分かるので、こちらは心臓ドキドキさせて、隅っこで小さくなってしまう。やはり『ハードル高いなぁ』と感じてしまうのだ。
初めてセッションに参加するこの日は、心配されたのか師匠も駆けつけてくれた。
「セッションですから、うまい・へたは関係ないです。大丈夫ですよ」
「そうですか。でも、皆さん上手そうですねえ。ご迷惑をお掛けしますね」
「曲にOKが出たら、テンポを出してください。これサックス屋の仕事です」
こんな話をしていたら、リーダーから指名していただいて、ステージに上がることになった。
「新米ですけど、よろしくお願いします。ブルースの『ミスターPC』でいいですか」
緊張しまくって蒼白になっていたと思う。タッタッとカウント出しをした瞬間に伴奏が始まった。『まず、テーマは脱線させないように。しっかりとベースを聴こう。アドリブに入ったら、ブルーススケールで手堅く』を意識していたけれど、4コーラス目からひとり密林を彷徨することになった。半分飛んでいたような感じだったけれど、リズム陣の方から迎えに来てくれた。温かいサポートをいただき、お約束通りピアノに回せることができてホッとした。この感覚は忘れられない。
「いきなりコルトレーンですか。驚きました。フリー系も聴かれていたんですね」
「というか、どうしようもなくて、メチャクチャでした。戻れたのは奇跡です」
「時間もあるし、あと2曲くらいできそうですけど、どうされます」
「え~と、今日のところは・・・・ いや、やります」
こうして、記念すべきセッションデビューの一夜は終了した。『試練あり、人情あり』のひと時を味わい、自分自身に弱気と無謀さが同居していることも確認できた。
この日の経験を踏まえて、セッション用の定番曲をレパートリーに含める様に軌道修正し、番外レッスンとして継続させていく方針が打ち出され、私の歩むサックス道も新たな段階に進むことになった。まるで、高齢者枠で編入してきた音大生のようだ。
「先生、私の寿命があるうちに成果が上げられるでしょうか?」
「音楽に終点はありませんよ。好きなようにサックス吹きまくればいいじゃないですか。楽しめれば最高の成果です。寿命の方から追いかけてきますよ」
3歳年長の老輩であり、バークリー音楽院OBで今は地元プロとしてライブ活動を続け、並行してガン治療を実践している師匠の言葉は重く響く。『能書き垂れずに、セッション魔王になってみろ』と挑発してくるのだ。もはや、ボケ防止の範疇を越えているけれど、それを主張することは憚られる。レッスンからの帰り道、夕暮れ時に降りてくる北アルプスからの寒風に逆らって歩いていると、『覚悟せにゃいかんばい』という声が体内の奥から聞こえてきた。
「悠遠」筆者自刻
―令和7年2月中旬―
【挿図】マイ・サックス 軸は拙筆、般若心経冒頭
【題字】「任閑遊」筆者自刻 60×60mm
出典は碧厳録です。碧厳録第64則の一節に「長安城裏 任閑遊」とあります。「(禅家の師弟が旅の途中に)長安城を訪問し、特に用事もなく暇だったので、二人して街中をゆっくりと散策して楽しむ」という意味になりますが、解説書によると、長安城裏は悟りの世界を意味しているとありました。悟りの境地を得た人々は、何事もこだわりなく自由自在に振舞い楽しむことを日常とするということでしょうか。個人的には、師弟仲良くという雰囲気が好きなところです。
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(c) Masaki Matsui
【著者プロフィール】
松井正樹(まつい・まさき)。昭和29年北九州市生まれ。元国土交通省下水道部長。現在、松井技術士事務所代表。合気道稽古人(五段)、ジャズ・マニア(レコード蒐集、サックス演奏、ヴォーカル)、篆書・篆刻を嗜む。信州松本市在住。
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【連載目録】
其の壱 バケットリスト事始め 2024.9
其の弐 終わりなき稽古、いつまでやるのか 2024.10
其の参 愉しきは古稀同窓会 2024.11
其の四 未知なる世界への越境 2025.11