【連載目録】松井正樹随筆「任閑遊」
2024.9 其の壱 バケットリスト事始め
2024.10 其の弐 終わりなき稽古、いつまでやるのか
2024.11 其の参 愉しきは古稀同窓会
最近、よく耳にするようになった「バケットリスト」(Bucket List)とは何なのか? ネット検索で調べてみると、「成仏する前までにやっておきたいこと一覧」とある。老境の道を歩み続けている身の上としては、「死」と密接に関係する事柄を何故に「バケツ」に由来させるのか理解に苦しむところではあったが、ここは西洋人の発想を受け入れるしかない。何かを容れる道具なら、死に至る瞬間にあっては、宝石箱であろうが金箔押しの漆塗り文箱であろうが全く意味を持たないであろうから、日常的存在である「バケツ」が付き添うのはむしろ仏教的でさえある。そう思えば、この日本語訳が「棺桶リスト」として広まっているそうだが、なるほど、合点が行く。
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ある日、大学ノートを小脇に抱えた家内からバケットリストを作り始めたという話を聞かされた。それ以前に、彼女には「墓仕舞い」だの「エンディングノート」だの旅立ちの支度に意欲満々な時期があったのでそれほどの驚きはなかったが、何かしらのサポートを要求しているような眼差しを感じて、少し身構えた。
墓仕舞いの件の時は、九州にある菩提寺の納骨堂に安置されている代々の位牌・遺骨を整理して永代供養墓に移そうという、度肝を抜かれる提案であった。墓守りの煩わしさを息子達に引き継ぎたくないという親心ではあったが、先祖様に申し訳が立たないということで、必死の抵抗をして休戦状態に持ち込み、今に至る。
それに比べるとエンディングノートはすぐに合意が図れた。必要と感じたら、それぞれ個々に作成すること。成仏後の遺骸、遺品の取り扱いを指定して何の意味があるのかよく分からなかったので、「北アルプス山頂から散骨してくれなんて書くなよ。みんな困るから」と注意だけはしておいた。普通でいいと思うのだけれど、何かしら考えるところがあったのだろう。
そこで、今回はバケットリストと来た。これは生前になすべきことを選定するものなので、きっとリアルな中身に違いない。今後も良好な夫婦関係を維持していくためにも、休戦状態が破綻するのを避けるためにも、亭主として真摯に協力していかなければならん――そう得心するに至った。
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話を聞くと、家内のバケットリストには、まだ2項目しか記載されていないとのこと。あの大学ノートはまだ2ページしか消費されていない。全く拍子抜けしてしまったが、それぞれの項目を達成していく過程で新しい項目を追加していく方針らしく、新鮮味が維持されるので、これでよろしいということらしい。目標は、ご臨終のその時までに100項目ぐらいのプチプロジェクトが〈済〉サインで満たされたことを確認して、人生の達成感を味わうことなのであろう。
さて、彼女の記念すべきリスト第一号は「ジャズを唄う」であった。8月のお盆休みで息子・孫達が帰省した時に唄って見せたいから、サポートしてくれと依頼された。 「う~ん、」
自由に唄ってくれればそれで十分ではないか。素人だし。公務員OBの亭主に何を期待しているのだろうか。確かに、私は年季の入ったジャズ・ファンである。レコード蒐集も続けているし、無謀にもテナーサックスを購入して、プロ奏者のレッスンも受けてきたし、定期的にフリー・セッションにも参加している。でも、一向に上達しないので、万年初心者だと自覚している。信州に移住してからは、文化センター主催のジャズ・ヴォーカル教室にも入会した。これとて、高齢者仲間でマージャン卓を囲むようなもので、はっきり言って、とてもサポートできるような玉ではないのだ。
しかし、こんな繰り言を彼女の耳に晒しても何の解決にもならいと観念し、「よし、俺が今習っている『ナイト&デイ』はどうだ。何ならデュエットでやるか」と自信満々の体で言ってしまった。
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昨今は、ユーチューブで歌唱動画が公開されているので、家にいてもそれなりの練習が可能だ。「ナイト&デイ」はコール・ポーター作曲のミュージカル歌であり、エラ・F,F・シナトラ,H・メリルなど多くのヴォーカリストがカバーしている名曲である。多くの動画を流してみて、結局、親しみやすい英語表現と柔らかな雰囲気が合いそうだという理由で、原田知世さんの歌唱をコピーすることにした。
それからの彼女の猛練習は瞠目すべきものであった。暇さえあれば動画を再生しては原田女史と重唱し、あっと言う間に歌詞を暗唱するまでになった。大口を叩いていた私の方が大幅に出遅れてしまって、合わせて練習する時間も十分に取れず、「あとは本番前のリハーサルですり合わせればいいから」と濁しては時間稼ぎをする始末だった。
本番当日、息子達家族(7人)が集まるお盆の初日、広めの音楽室(ピアノレッスン用)を保有する親戚宅に押しかけて、ランチを済まして適当にアルコールをひっかけた雰囲気の中、さも自然の流れかの如く発表会が挙行されることになった。二人でリハーサルやっていたら、長男夫婦がピアノ、クラリネットで伴奏してくれることになり、観客もだんだん増えてきて、音楽室がライブ会場らしくなってきた。
私たちの二重唱は、特に構えることもなくあっと言う間に終わってしまって、派手目のパチパチを頂戴した。が、その後意外な展開が待っていた。老夫婦の涙ぐましいデュエットに感化されたのか、我も我もの飛び入りプログラムが始まったのである。サックス,クラリネット,ピアノの三重奏、ギターの二重奏、児童用ストリート・ダンスなど。失敗あり、脱線アリ、笑いありの隠し芸大会に変質したイベントとなったが、家内は大満足している様子だった。良かった。
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宴の後にはある種の寂しさが訪れる。バケットリストの最初の1ページに〈済〉サインが記され、プチプロジェクトは終了した。あれ以降、家内は一度も「ナイト&デイ」を口ずさむことはない。
第2リストは「筋トレをする」となっている。これにも、少なからず驚かされた。プロジェクトのイメージが湧いてこないのだ。例によって、早朝座禅は欠かすことなく参加しているが、静かに準備をしているのだろう。亭主がサポートする機会があるかどうかは、まだ分からない。
―令和6年9月中旬―
【題字】「任閑遊」筆者自刻 60×60mm
出典は碧厳録です。碧厳録第64則の一節に「長安城裏 任閑遊」とあります。「(禅家の師弟が旅の途中に)長安城を訪問し、特に用事もなく暇だったので、二人して街中をゆっくりと散策して楽しむ」という意味になりますが、解説書によると、長安城裏は悟りの世界を意味しているとありました。悟りの境地を得た人々は、何事もこだわりなく自由自在に振舞い楽しむことを日常とするということでしょうか。個人的には、師弟仲良くという雰囲気が好きなところです。(松井正樹記)
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【著者プロフィール】
松井正樹(まつい・まさき)。昭和29年北九州市生まれ。元国土交通省下水道部長。現在、松井技術士事務所代表。合気道稽古人(五段)、ジャズ・マニア(レコード蒐集、サックス演奏、ヴォーカル)、篆書・篆刻を嗜む。信州松本市在住。
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(c) 2024 Masaki Matsui
【連載概要】硬い記事中心の本紙にオアシスを設けました。元国交省下水道部長でジャズ・マニア、松井正樹さんによる余暇(仕事ではない)中心の随筆です。著者は国の重職を務めあげた後信州松本に移り住み、ジャズに加えて合気道はしかも五段。さらには篆書篆刻玄人はだしという多才な文人で、その充実ライフの片々を描く随筆には、生きるヒントがにじんでいます。
当Webメディア「上下水道情報plus」限定配信。向後月に1回程度の不定期連載でお届けします。請御期待。
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