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【連載】「任閑遊」十八 松井正樹

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任閑遊

其の十八

真夏の信州での楽しみ

松井正樹

(元国交省下水道部長・松井技術士事務所代表)

寒冷地である信州・松本も盛夏は暑くなる。テレビのお天気コーナーでは、毎日のように『体温を上回る、危険な暑さ』とか『観測史上最高の気温』のような発言が飛び交い、エアコンの活用を推奨してくる。確かに、昨年と比較しても酷暑の度合いは段違いなように感じられる。当地は標高も高くて(総じて500mくらい)日射が強く、しかも盆地となっているので、太陽エネルギーが周囲の山斜面から反射してきて、底の部分に集中しやすくなっている。北アルプスから降りてくる冷風が潜り込んでくると暑さも和らぐことになるが、膨張する太平洋高気圧の影響でその効果は限定的となっているみたいだ。だから、就寝時にもエアコンは遠慮なく作動させている。

このように、酷暑続きとなりそうな今年の夏だが、私のプライベート面では何かと用事が詰まっている。8月上旬にはヴォーカル教室の発表会があり、その月末にはサックス・セッション大会が予定されていて、曲目をさらっておかなければならないし、有志によるリハーサルのご案内も来るだろう。さらに、お盆シーズンの連休には、東京から次男家族4人が来訪してくる。近くのビジネスホテルにでも投宿すれば良いように思うけれど、我が家に三日間居候するとのことである。寝室は彼らに明け渡し、夫婦は居間で雑魚寝することになりそうだ。これにヒーちゃん一家4人が乱入してくることは間違いない。尚且つ、御一行の到着前にレコード整理プロジェクトを終わらせておかなければならないのだ。楽しいけれど、苦しい日々となる。

お盆を過ぎれば、月末締め切りでコンクール出品用の書道2点を完成させるミッションが待っている。今回は先生からお題を指定されていて、古典『石鼓文』の一節と呉昌碩作品の臨書となっている。これらを掛け軸用の半切用紙に揮毫することになるが、すぐに書けるほどの達人ではないから、まずは落ち着いた環境でじっくりと時間をかけて慣らしていく準備期間が必要となる。けれど、最早それは無理だと観念し、勝負はお盆終了後の必死な過ごし方にあるものと覚悟しているところだ。いかにも安直な考えであるが、書道日とサックス日を交互に設定して、末日に至る過程を平常心で体感し、ある種の諦観を呼び起こしていくしかないのである。

5日前に見込みより早くヴォーカルグループの最終リハーサルが開催された。あとは、本番当日の直前リハーサルしかないので、イントロ、テンポ、構成、エンディングをここで決めなければならない。自分自身に気合をかけて乗り込んでみたものの、なぜか、先生も伴奏陣も揃ってニコニコ顔である。開始早々から集まった生徒さんは覚悟の表情を見せつつも、どことなく余裕が感じられる。この日に曲目を変更する方もおられ、その鷹揚な振る舞いにちょっと驚いてしまった。ベテランさんは、やはり凄いな。

「松井さん、スイングとバラードの2曲ですね。中間でサックス独奏でしたっけ?」
「先生のご注文通りです。何なら、戻しましょうか。これって、結構な負担ですし」
「いや、ぜひ楽器は入れてくださいな。面白くなりますから。うゎ~楽しみ」
「テレビでサックス抱えている演歌歌手を観ました。重くて辛そうでしたよ」
「ご自身でチャレンジしてみてください。新しい世界が見えるかもです。では、どうぞ」

なぜか、この芸歴40年を超える女性ジャズ歌手の少し甘えたようなハスキーな声色には逆らえないのである。飼い猫のようにコントロールされている感じだ。私とほぼ同世代のピアノトリオのメンバーは、このやり取りを聞いていて全てを悟った様子で、寄り添うように伴奏に入ってくれた。少し長めのイントロ、2コーラス目でヴォーカルからサックスに移る時の僅かな遅れの処理、明瞭なコードチェンジ、エンディングでのさらりとした音拾い・・・・。私自身は、スイング曲でのサックスソロの走り過ぎと数か所でミス・トーンがあるなど課題は残したものの、破綻することは免れて最後までやり通すことができてホッと一息つけた。

「いいんじゃないの。緊張したの? 私も緊張はしますよ。歌詞の意味をもう一度嚙み締めてくださいね。そして、もっと弾けなさい。本番が楽しみです」

大いに乗せられていることを自覚しながらも、最終リハーサルをクリアした満足感に少しだけ酔うことができた。緊張感が解けてきたせいなのか、『何とかなりそうな感じだな。まあ~、どう転んでもいいや』ともう一人の自分が真後ろから囁いてきた。これが怖いのだ。

昼間は趣味の用務を誠実にこなしているところだが、夜は夜で、お約束の時間がルール通りに訪れてくる。週2回の合気道の夜稽古(7時半から9時まで)である。自宅から徒歩10分で辿りつく市立武道館は絶好の立地条件にあるが、残念ながら空調設備が一台の扇風機だけなのである。よって、この時期と真冬は悲惨な環境となってくる。冬場は徐々に体が温まってきて救われるが、夏場は湧き出る汗のおかげで道着が濡れて重くなってくるのだ。これを続けていくと不快感が高まり、暑さにもやられてきて道場内の天井が霞んで見えてくる。この状況でも、80歳を超えた道場長は手を緩めることをしない。むしろ、叱咤する音声は館内に鳴り響いている。信じられないほどの鉄人である。

 「暑いからこそ、汗で体を洗い流せ。この繰り返しが身体を作ってくれるんだ」
A「肝心の青年諸君が帰省モードに入っています。後半は自由稽古で行きましょう」
 「では終盤30分は自由稽古としよう。でも、馴れ合いはダメだぞ。ケガするからな」
B「先生、Cさんが貧血気味でへたり込んでます。保冷剤貼って静養させます」
 「適宜、休憩してくれ。水分補給もな。誰かCさんと一緒に帰宅できないか」
A「帰りは私のマイカーで送りますから大丈夫です。この程度なら心配無用です」
 「皆さん、力まないで、ゆっくりとやってください。基本技の確認ですから」
私「無駄な動きがないか注意して、4本やったら交代前に一息入れましょう」
 「皆さん、そういうことだ。だから、暑中稽古の意義をよく理解してください」

終了時間が来たら、拝礼して、掃除して、シャワーも浴びずにTシャツに着替えて、従容として帰路につき、自宅で汗を洗い流し下着を替えて、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に喉に流し込むことにしている。すぐに何とも言えない幸福感に満たされ、生きてきて良かったと半端無い解放感が押し寄せてくるのだ。ビールの役割は無視できないが、この時ばかりは、先生の言葉に間違いはないと確信することになる。

松本市の夏はイベントが目白押しである。昨日は「松本城太鼓祭り」が開催され、全国各地から太鼓演奏集団が特設会場に集結して、夜中9時まで大音量でリズムを叩きだしていた。

松本城太鼓祭りの様子

決して、騒音と感じることは無く、むしろ懐かしいビートとして受け入れることができた。縄文時代から、狩猟資源に恵まれていた松本平は山稜伝いで隣国との交易も活発であったとされているが、その時代を生きていた遺伝子が我々に継承されている事実を確認できたような気持ちになった。8月に入ると、1日に市内大通りを踊り歩く「松本ぼんぼん」が開催され、「すすき川花火大会」を経て14日からの「お城盆踊り」へと駆け上がっていく。

しかし、これで終わりではない。ここからが、“楽都”の真骨頂なのだ。8月16日からは「セイジ・オザワ松本フェスティバル」が半月ほどの期間をかけて開催される。今期のサイトウ・キネン・オーケストラのメインプログラムは、メシアン「トウランガリーラ交響曲」とブルックナー「交響曲第8番」である。毎年、かなり尖った演目を出してくるのだが、だからこそ全国から熱烈なクラシック・ファンが集結してくるのであろう。そのほか大小の音楽ホールで室内楽なども演奏されていく。この期間は、松本中心部は少し余所行きの雰囲気となる。海外からの演奏者も闊歩する。私自身も松本市民やってる感に染め上げてゆくに違いない。

―令和8年7月下旬―



【題字】「任閑遊」筆者自刻


(c) Masaki Matsui

【著者プロフィール】

松井正樹(まつい・まさき)。昭和29年北九州市生まれ。元国土交通省下水道部長。現在、松井技術士事務所代表。合気道稽古人(五段)、ジャズ・マニア(レコード蒐集、サックス演奏、ヴォーカル)、篆書・篆刻を嗜む。信州松本市在住。

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