【連載】「任閑遊」十五 松井正樹
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其の十五
新生児現れる
松井正樹
(元国交省下水道部長・松井技術士事務所代表)
古稀を越えた年齢になってから、このような事態に遭遇するなんて、ちょっと想像できなかった。松本在住の長男夫婦のもとに次男坊(ヒーちゃんの弟)が誕生したのだ。したがって、この事態は歓迎すべき慶事である。医療関係者の見解を聞く立場にないので詳細は不明であるが、出産予定日を少し経過した時点で、普通分娩にリスクがあることが判明し急遽メスを入れて出産することになった。すべて嫁が朦朧とした意識の中で決断したことだった。手術は順調に執り行われ、母子共に無事に退院できることになった旨を聞かされた時には、お互いの安寧のために設定していた暗黙の距離感が嘘のように消滅し、家内と手を取り合って喜んだ。ここ暫く、毎日のように仏壇を開いて安産祈願してきたお陰に違いないと、ご先祖様に感謝もした。
しかし、ここまでは深刻な事態とは言えない。まま有ることであろう。それから一週間が経過して、嫁と新孫の退院してからの養生先が我が家に選定されてから、今まで直面することのなかった現象が湧き水のようにあふれ出てくることになったのである。
「どうして、ここが養生先になったんだ。狭いし。普通は、実家とかじゃないのか」
「通院や店舗経営もあるし、ここが便利だからじゃないかしら。彼女の希望なのよ」
「いいけど、気疲れとかしないか心配だな。今は大変だから、何でも手伝うけど」
「気遣いをする余裕もないのよ。あなたはマイペースでどうぞ。ヒーちゃんの保育園のお迎えには行ってね」
「わかった。お前も頑張りすぎるな。長めのキャンピングだと考えよう。いい機会だ」
「相変わらずね。私は覚悟できてます。6人生活の切り盛り致します。あなたも変な願望は捨てて、空気に徹してくださいな。彼女の復帰までの間ですから」
考えてみると、自分の場合は、家内は2回とも里帰り出産だったし、いずれも一カ月以上経過してから迎えに行っていたので、出産直後の慌ただしさは全く経験してこなかった。むしろ、久し振りの独身生活を楽しめることの解放感をじっくりと味わっていたと思う。その時の「楽」をした分の回収が今やってきた感じだった。だったら、仕方ないか。
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当たり前だけど、赤ちゃんは貪欲に泣く。ほぼ3時間おきに、空腹を訴えて渾身の力で泣き叫ぶ。その声には特殊な訴求力が乗っていて、別室で寝ていても目を覚ましてしまう。そして、ミルクを飲んで満足すると落ち着いた表情に一変するのだ。しかも、日々ゆっくりと表情豊かに変貌していっている。この可愛らしさへの進化が魔力である。不満や苦労を消去してしまうから、困った存在である。
問題は、ヒーちゃんの方にあると思っている。まず、一週間ほど母親と離ればなれになって淋しさに耐え続けていたから、再会時は涙の抱擁シーンとなった。この神々しい場面を目の当たりにして、私達夫婦も貰い泣きしてしまった。ヒーちゃんは胎内の弟のことを「おなかの人」と呼んでいたが、対面してから、母親に言われて「赤ちゃん」と呼び変えるようになった。そして、家族全員が取り囲む中で、母親に「おめでとう」と言った。ちょっと2歳児にしては出来過ぎの演出だなと驚きつつ、率直に感動してしまった。前と変わらぬスキンシップを要求しながら、家族が増えたことに興奮して、ヒーちゃんははしゃぎまくっている。時に大声出して甘え泣きを披露し、ご機嫌な表情で赤ちゃんを撫でまわし、親切に枕元におもちゃを持ってきてくれる。だから、今や要注意人物としてマークされているのだ。どうか昼間にスタミナを消費するように、保育園からの帰り道は遠回りコースを歩いて同伴するのが私の重要なミッションになっている。
大家族生活が普通になるのを待つまでもなく、もう少し二人の乳幼児が成長するのを待つことこそが根本的な解決策になるものと、早くも確信することになった。時間を味方にしなければならないのだ。この一年が踏ん張り時なのであろう。この年齢になって、恐るべしは「保育」なのだと悟った次第である。大人連中では、振り回されて家族が破裂しないように、小まめに連絡し合って団結力を高めていく必要性が共有されることになった。
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それはそれとして、できるだけ普段通りに過ごしていくという信条から、私の趣味はこれまで通り続けることにしている。つい先日は、松本に移転してから加入した「ジャズヴォーカル愛好会」の定期練習に参加してきた。月一回のペースで、指導役の現役プロ歌手を招聘して、好きな楽曲を歌い込んでいくのだ。一曲をものにするのに時間はかかるけれど、毎年秋期に開催される発表会で臆面もなく披露することで、一日だけフランク・シナトラになり切って自己陶酔を味わい、同時に溜まり切ったストレスを発散することが可能となる。そのように、少なからず期待もしているのだ。
「松井さんは、サックスの練習もされているから、『My Foolish Heart』の2コーラス目はサックスで吹き流してみたらどうですか。いい感じになるかも」
「切り替えが難しいとか以前に、別物ですから。そんなサックス奏者いないです」
「アマだから、果敢に挑戦できるのよ。難しく考えないで、楽しんでみて」
「でもですね。伴奏陣との関係が複雑になって、・・・練習しないと・・・」
「あの連中なら大丈夫ですよ。ハプニングが大好きな方々ですから。ハハハ」
元来の気弱な性格が裏目に出て、断固拒否することができずに、大きなストレスを抱え込むことになってしまった。ヴォーカルを始めた趣旨とは違う方向に向かっている。しばらく自問自答し、サックス用譜面を調達しては眺めまわし、二人の乳幼児が我が家を占拠していく過程を受け入れつつ、ある日忽然と『仕方ない。やってみるか』と気持ちが落ち着いた。どうにでもなれ、どうせこっちは素人だしという居直りでもあった。
ふと、思い至るときがやってきた。今の自分はヒーちゃんと似たような境遇にあるに違いない。要求される状況を自分勝手に決め込んで、その枠内にわが身を押し込めようとしている。無意識に過剰反応しているのだ。当然ながら、そこに正解が用意されているわけでもないし、他者は無関心でもある。ただ、時間の流れに乗ってその場所にたどり着けばよいだけなのだ。判定の場が待ち構えていることは無く、あるとすれば自分自身の満足感だけなのだ。それすら、一瞬で霧消していくものであろう。
そう得心して以来、ヒーちゃんの手を引いて保育園からの帰路をゆっくりと歩いている時は、『My Foolish Heart』を大きめに口ずさみながら、『無理せずに、ゆっくり馴染んでいけばいいんだよ。ヒーちゃん』と思いを伝えることにしている。ご機嫌が良ければ、『あずさ2号』のハミングが聞こえてきて、癒しのひと時が与えられることになる。

随後去
(筆者自刻)
―令和8年3月下旬―
【題字】「任閑遊」筆者自刻
(c) Masaki Matsui
【著者プロフィール】
松井正樹(まつい・まさき)。昭和29年北九州市生まれ。元国土交通省下水道部長。現在、松井技術士事務所代表。合気道稽古人(五段)、ジャズ・マニア(レコード蒐集、サックス演奏、ヴォーカル)、篆書・篆刻を嗜む。信州松本市在住。