試用IDでの閲覧には一部制限があります
印刷

【連載】「仁閑遊」十一 松井正樹

任閑遊

其の十一

書留郵便、届く

松井正樹

(元国交省下水道部長・松井技術士事務所代表)

誰しも経験があると思うけれど、個人的な交流を重ねてきた知人からの予期せぬ郵便物に、理屈抜きに嬉しくなることがある。そんな吉事は滅多にないが・・・

10月中旬の日曜日の昼過ぎ、郵便局の配達員さんがドアブザーを鳴らして、長さ50センチほどの細長い直方体の荷物を手渡してくれた。わざわざ書留郵便で送っていただいたものだが、思い当たる節がない。達筆で書かれた発送伝票を凝視して、ようやく覚知できた。

これは、書道社中の大先輩のKさんからのものだ。ひょっとすると、90歳までには完成させると豪語されていた、あの大作がついに仕上がったのか・・・

包装紙を丁寧に解いていくと、紙製の立派な長い箱が現われ、その蓋をゆるりと持ち上げると、一本の掛け軸が横たわっていた。添書きも同梱されている。私は『あれに違いない』と確信し、堪らず掛け軸を畳の部屋に持ち出して、恐る恐る転がしてみた。

やはり、千字文だ。250個の篆刻が一枚に押印されている。朱色の圧力が迫ってくる・・・これはすごいな。もはや、アートになっている。

千字文は、中国南北朝時代の南朝・梁の武帝の命によって作成された、重複のない一千個の漢字による、四字一句の250句からなる漢詩である。作者は文章家・周興嗣と言われる。

書道を習ってしばらくすると、古典(お手本)の一つとして「真草千字文」や「六体千字文」を購入することになるから、書道人にとってはバイブルとも言える。私も高校時代(芸術科目は書道を選択)に近くの本屋で手に入れて、「千字文」を机上に置いていた。でも、使い途が分からないのである。目当ての漢字がどこに記載されているか不明だから、辞書として使うことはない。漢詩として鑑賞するには長すぎるし、重複利用を禁じてあったから韻文として不自然に感じてしまうような予感もする。一度も通して読み取ったことはないのだ。私にとっては、名人の残した美しき文字を眺め、気に入った四字一句の解説を読み、楷書、行書、草書等への崩しの法則を視覚的に学んでいく教材であった。

しかし、表装した掛け軸に千字文全文が刻された異様な作品と対面してみて、捉え方が変化してきた。

接近して凝視すると、刻した文字の生命力を感じ取ることはできるけれど、普通の篆刻作品を鑑賞するような集中力は湧き上がって来ない。朱色は線というより網のような繋がりを主張し、刻石間の白い規則的な間隔が全体の秩序を保っている。端的に言えば、千文字を分割して見取ることは意味がなく、視界に千文字全文を凝集させて感じ取るべきものではなかろうか。およそ1500年に亘って連綿と継承されてきた、「天地玄黄」で始まる千文字すべてが眼前に展開された時こそ、そのエネルギーを全身で浴びることができる。この幸運に遭遇したことに感謝しなければならないと思った。

この軸を壁面に掛け直して、少し落ち着いたところで、K先輩にお礼の電話を差し上げた。

「貴重な逸品をお送りくださり有難うございます。大作ですね、感激です」
「迷惑かもしれないけどね。足掛け24年費やしてきたから、そのお披露目です」
「千文字の篆刻作品なんて見たことないです。家宝にいたします」
「でもね、見たらわかるけど、あれは複写で縮小した作品なの。落款は実物だけど」
「はあ~、そうなんですか。違和感はなかったですけど」
「実物の刻石は6センチ角なので、250個押印すると一畳の大きさになるからね」
「では原本をつくるのも大変だったでしょう。ミスできないですね」
「こっちの社中の連中に手伝ってもらった。最後の最後まで緊張の連続だったよ」
「複写作品でも価値は変わらないと思います。原寸だと壁掛け出来ないですし」
「そこが気になっていたところなんだが、仕方ないな。有難うな」

社中のおじさん連中が声掛けしながら、大きな和紙を広げ、刻石を正確な位置にあてがい、たっぷりと印泥を塗りこんで押印する姿が脳裏に浮かんできた。何回も練習したに違いない。手伝えに行けなくて申し訳ない思いだった。

「千字文は身近に置いているだけで、なんか不思議なパワーがもらえますね」
「嬉しいね。絵画も音楽もそうなんだ。日常の中にそれを受け入れていれば、作品の方から何かを示してくれる。パワーかもしれんし、満足感や喜びかもしれん」

久し振りに大先輩から叱咤激励もいただいた。大作を創りあげていく執念もさることながら、九十路に分け入ったご本人の軒昂さに大きな刺激をいただくこととなった。

それから、一週間ほど経過したある日のこと、また郵便局の配達員さんが書留郵便を届けに来てくれた。前回と同じ方だったみたいで、少しにこりとされていた。今度は赤いレターパックだった。送り主は、東京在住の次男家族の長男坊、小学4年生の孫からである。これは嬉しい。毎月でも届けてほしいくらいだ。

レターパックの中身は、塗り絵ブックと色鉛筆ケース、そして折りたたんだ手紙だった。

塗り絵グッズは、高齢者用の脳活トレーニング商品か。昨今の祖父母の言動の変化に子供なりに何らかの不安を感じ始めたのかもしれない。まあ、息子と嫁は多少は実感しているところがあるのであろう。

手紙は、意外にも手作りの家庭内新聞であった。『○○小学校びっくりニュース』と題された手書きの一枚もの。誤字脱字が多くて読み解くのに時間がかかるけど、生の情報が盛られているから面白い。

大きな見出しは『バスケットボール、堂々の3位!~先生チームには勝利』とある。30年前の父兄参観の時、余興でバスケ試合をやった経験からして、この機敏さが要求されるスポーツでは、普通の大人チームは子供チームに勝てない。3分もすればバテてしまうからだ。過去の記憶を思い起こしつつ、元気にしている姿が浮かんできて安心した。

次のトピックスは『△△先生、退職して辞める』、なんだか現実社会の非情な一面が映し出されたような見出しだったので、数回読み返してみた。退職理由は不明で、生徒からは慕われていたらしい。個人都合なのだろうか? そのクラスの女子生徒は涙を流していたそうだが、別れの光景を彼はクールに観察していたみたいだ。もっと真相が知りたくなった。

子供が暇に任せて、お遊び感覚で作りあげたお手軽な新聞と言えなくもないが、祖父の立場からしたら、読みどころはたくさんあった。『好きな漢字、ベスト3』はもちろん興味深く読ませてもらった。

でも、もう少し落ち着いて丁寧に書いて欲しいとの不満が残って、これから電話して意見しようかと考えていたら、裏面の記載が目に入ってきた。

『一部500円です。二人で読んだら1000円』

そういう魂胆だったんだと気付かされたが、怒る気持ちは湧かない。『いいとも、料金は払うよ。でも、あの記事の真相は話してもらうからな』と性根を据えた。次に会うのが楽しみだ。

いま眼前の千字文にこうある。「悅豫且康」――喜び楽しく心は安らか。

―令和7年11月上旬―

【題字】「任閑遊」筆者自刻


(c) Masaki Matsui

【著者プロフィール】

松井正樹(まつい・まさき)。昭和29年北九州市生まれ。元国土交通省下水道部長。現在、松井技術士事務所代表。合気道稽古人(五段)、ジャズ・マニア(レコード蒐集、サックス演奏、ヴォーカル)、篆書・篆刻を嗜む。信州松本市在住。

【連載目録】はこちら

一覧へ戻る