― 下水サーベイランスは、何がすごいのか ―
― なぜ今、下水サーベイランスの社会実装が必要なのか ―
― なぜ、下水サーベイランスは、国土交通省が主導すべきなのか ―
Ⅰ. はじめに
2026年7月21日、「骨太の方針2026」が、閣議決定されました。
骨太の方針は、正式には、「経済財政運営と改革の基本方針」と呼ばれ、日本政府の国策の基本方針・最重要事項を提示するものです。これに沿って、各省庁は、当座の重要施策を決定し、推進します。
この「骨太の方針2026」に、「下水サーベイランスの推進」が明記されました。「日本政府の最重要政策の一つ」と位置付けられたのです。
これを受け、下水サーベイランス関係の二つの団体、すなわち、「一般社団法人日本下水サーベイランス協会(大学と民間による団体です。)」と「全国下水サーベイランス推進協議会(大学と自治体等官による団体です。)」が連携して、厚生労働省・国土交通省等と、下水サーベイランス推進に向けての具体的な手順・施策の協議を始めています。
下水サーベイランスは、下水中の病原体等を下水処理施設の入り口等で、定期的・継続的に測定することにより、地域の感染症流行状況を集団レベルで、早期に正確に検知するものです。各家庭から排出される水等は、トイレ・洗面所・風呂・台所等からほぼすべて下水道に入ってきます。感染症にかかった人から排出されたウイルス・細菌等の病原体は、便・尿・痰・つば・鼻水・汗等からほぼすべて下水道に流入します。このメカニズムを使った科学的な感染症流行把握手法が、「下水サーベイランス」です。
Ⅱ. 下水サーベイランスは、何がすごいのか
「骨太の方針2026」を読み解きますと、現時点における日本の国政の最重要政策は、ⅰ. 日本経済成長戦略、ⅱ. AX/DX戦略、ⅲ. 国家安全保障、ⅳ. 経済安全保障、ⅴ. 食料安全保障、ⅵ. エネルギー安全保障(脱炭素・GXを含む)、ⅶ. 国土強靱化安全保障、ⅷ. 健康医療安全保障と、短期的なⅸ. ホルムズ海峡封鎖による石油・ナフサの確保、ⅹ. 物価高対策――の10政策です。
「骨太の方針2026」では、下水サーベイランスは、上記10政策のうち、「ⅷ.健康医療安全保障政策」として、人の感染症対策としての重要性から、推進が提言されています。
しかし、下水サーベイランスの果たす役割は、「健康医療安全保障政策」に留まりません。鳥インフルエンザ・豚熱等の動物の感染症対策を踏まえた「食料安全保障政策」、海外からのバイオテロ対策等「国家安全保障政策」、下水管路内の硫酸還元菌・硫黄酸化細菌の経年的測定による下水管路腐食危険度マップの策定等「国土強靱化安全保障政策」にも、下水サーベイランスは、貢献します。この「幅広い活用・効用」が、下水サーベイランスのすごさの一番目です。
下水サーベイランスの二番目のすごさは、人の感染症対策における「感染症流行状況の早期把握」、それも、ほとんどのウイルス・細菌を精度高く検知できることです。その検知対象ウイルス・細菌の種類は、ここ1~2年で、大きく拡大しており、精度も高まってきています。今日までに、世界中で、下水サーベイランスで、検知されているウイルス・細菌は、新型コロナウイルス、インフルエンザA型B型ウイルス、ノロウイルス、RSウイルス、エンテロウイルス、A型肝炎ウイルス、ヒトメタニューモウイルス、エムポックス(サル痘)ウイルス、麻しんウイルス、デングウイルス、百日咳菌、結核菌、薬剤耐性菌等です。濃縮・PCR等の一定の手順で、ほぼあらゆるウイルス・細菌に対応できます。感染症にかかり、症状が出て、病院に行き、検査をしてその検査結果が出て、保健所・県庁経由で厚生労働省に感染者数の届けが来るのと比べ、下水サーベイランスは、1週間以上早く、流行把握・終息把握ができます。(下水サーベイランスの分析時間は数時間です。)
検出精度はここ2~3年で向上しており、下水処理区内に1日10万人あたりわずか1人の感染者がいても、処理施設の入り口で数百mlの流入下水を採水するだけで検知できます。日本の分析技術は、世界一のレベルです。
病院等からの報告による感染者数実態調査の感染者数変化と下水サーベイランス分析結果のウイルス濃度変化の相関は非常に高く、世界中で有効性の評価が確立しています。
すごさの三番目は、コストの安さ、コスト・パーフォーマンス(B/C)の高さです。新型コロナウイルス対応時、感染症対策として3年間で15兆円の国家予算が使われました。使われず使用期限切れ等で廃棄されたワクチンの費用は6650億円です。下水サーベイランスは、ここ数十年100兆円かけて整備・構築された下水道インフラを活用して下水処理施設の入り口で数百mlの流入下水を採水して、ウイルス・細菌の分析をするものです。膨大な既存下水道ストックの活用です。それも、採水は、日ごろから、各処理施設で定期的に行っていることで、追加の大きなインフラ構築や負担の必要がありません。採水・検体運搬・分析・解析の総費用は、数種類のウイルス・細菌を同時に分析して、一回、約10万円です。全国2200箇所の下水処理施設の1割の200処理施設で週2回下水サーベイランスを実施すると、10万円×100回×200箇所=年間20億円の予算です。次の新たなパンデミック発生時、感染症のピークが過ぎた(流行カーブが下向きになった)という判断を、下水サーベイランスを活用して行い、一週間早くピーク越えを検知すれば、ワクチンの追加発注の中止、病床数の追加確保・医師の追加確保の中止により、数百・数千億円規模での感染症対策費の節約が可能となるでしょう。下水サーベイランスの費用効果は、非常に高いものです。
Ⅲ. なぜ今、下水サーベイランスの社会実装が必要なのか
今後、新たな変異株や未知の感染症の発生が懸念されます。こうした必ず将来やってくるパンデミックへの早期対応に対して、上で述べたように、下水サーベイランスは、極めて有効です。次なるパンデミックが襲来する前のこの平時に、全国の下水サーベイランス観測網(モニタリング網)を構築し、備える必要があります。
パンデミックは、平均して10年に一回、襲来しており、2020年の新型コロナウイルスの発生から6年たった今、残された時間は多くありません。2003年のSARS、2009年の新型インフルエンザ(H1N1)の教訓を活かせなかった我が国は、二度と同じ誤りを繰り返してはいけません。
田村憲久元厚生労働大臣(自由民主党政務調査会会長代行、自由民主党下水道事業促進議員連盟会長、日本下水サーベイランス協会特別顧問)、尾身茂新型コロナウイルス感染症対策分科会元会長(日本下水サーベイランス協会特別顧問)、国立健康危機管理研究機構(JIHS)の感染症対策専門家等は、ネクストパンデミック時における感染症に関する政策決定は、「感染者数の把握」と「下水サーベイランスによる科学的な感染症状況把握」の両方で重層的に現況を把握して行うべきとの見解を示しています。
こうした状況下、まさに平時の今、2020年の新型コロナウイルス流行開始から6年たった今、下水サーベイランスの社会実装が急がれます。待ったなしです。
有事になって、あわてて、下水サーベイランス観測網を構築しようとしても、すぐに機能させるのは不可能です。平時の今、全国に「下水サーベイランス観測網」を構築し、平時には、毎年発生し、ワクチンもあり、事前の流行予測発表が有効なインフルエンザA型B型等を対象に、活用・演習しておき、次のパンデミックの際に、下水サーベイランスを速やかに活用することが必要です。
下水サーベイランスは、「都市の健康診断」です。将来は、「感染症流行の天気予報」が下水サーベイランスを活用して実用化されるでしょう。天気予報のように、ビジネスとしての可能性もあります。今こそ、速やかに、下水サーベイランスの社会実装を日本政府は、推進すべきです。
Ⅳ. 下水サーベイランスを国土交通省が主導すべき論拠
下水サーベイランスは、国土交通省が主導すべきと考えています。その論拠は次の通りです。
1. 下水サーベイランスは下水道がなければ成立しない
採水地点、処理区域、流域情報、流量情報、下水処理施設の保有・管理に関係しているのは国土交通省および全国の下水道管理者です。つまり、「下水サーベイランスの基盤そのものが下水道インフラである」と言えます。そのため、下水サーベイランス事業は感染症対策事業というより、「下水道インフラを活用した情報基盤事業」として整理すべきです。
2. 下水サーベイランスから得られるデータは厚生労働省所管の「人の感染症」だけではない
上記で述べたように、鳥インフルエンザ・豚熱等の動物の感染症対策、バイオテロ対策等の防衛・国家安全保障対策、麻薬等の薬物流入・流行対策、下水管路老朽化対策等に資するデータが得られます。データ活用は各省庁にまたがることから、下水道インフラ管理関係者の国土交通省が、主導し、データを政府として、共有・共同活用するのが望ましいです。
3. 下水道法の目的との整合性
下水道法は、その目的として、「都市の健全な発達及び公衆衛生の向上に寄与すること」を掲げています。下水サーベイランスは、地域における感染症リスクの早期把握や公衆衛生上の危機管理に資するものであり、下水道法の目的と極めて高い整合性を有しています。そのため、下水サーベイランス事業は、下水道行政の新たな展開であると同時に、下水道法の趣旨をさらに発展させる取組として位置付けるべきです。
さらに、国土交通省がすでに有している全国の物理的・人的下水道ネットワークの活用、地方整備局を通した展開力、ウォーターPPPとの親和性(採水・検体運搬・分析・データ解析・データ管理は、民間が提案して行える業務でウォーターPPPと親和性が高い)より、国土交通省が主導すると、極めて、スムースに推進が図れるものと考えられます。
つまり、「国土交通省は既に全国実装の土台を持っている」のです。
また、EUからの示唆も大きいです。下水サーベイランスがEU下水道法で義務付けられた経緯は以下の通りです。
2025年1月のEU下水道法改正にあたっては、改正前に1年以上にわたり、EU下水道法で義務付けることについて、議論が重ねられました。その結果、「下水道インフラが、公衆衛生データ・動物等の疫病対策データ・バイオセキュリティー対策データを網羅的・効率的・公平に収集できる最も強靱で、しっかりしたストックのあるインフラ基盤であること。下水サーベイランスから得られる情報は、多岐にわたって活用され、その基盤は、下水道インフラである」という理由で、EUにおいて、EU下水道法の中で義務付けられることとなりました。
Ⅴ. 下水サーベイランスの社会実装に向けて日本政府がまずやるべきこと
こうした中、現時点で、下水サーベイランスの社会実装の推進に向けて、日本政府が、今年度後半から、まず、着手すべきは、次の三点と考えています。
1. 「下水サーベイランス社会実装事業」が国土交通省等で、予算化されること。正式な恒久的事業としての位置づけが必須です。
2. 下水サーベイランスの全国モニタリング網(観測拠点)の構築。まずは、全国47都道府県で、必ず一か所以上、県庁所在都市を中心に全国50か所のモニタリング拠点の決定。来年度には、全国200箇所に拡大。
3. 厚生労働省、国土交通省の両省で、「下水サーベイランスの社会実装の推進」に向けた連携を図ること。研究のための連携でなく、社会実装に向けた連携が重要です。
Ⅵ. おわりに
「下水サーベイランス、今こそ本格的な社会実装を」というテーマで、「下水サーベイランスは、何がすごいのか」、「なぜ今、下水サーベイランスの社会実装が必要なのか」、「なぜ、下水サーベイランスは、国土交通省が主導すべきなのか」の三点について、述べました。
下水サーベイランスは、「下水道インフラの新たな価値創造」として、下水道関係者にとって、極めて重要で、関心の強いテーマだと思います。国民の下水道インフラに対する見方が大きく変わる可能性があります。
下水道インフラは、「街の健康状況」を把握する「情報インフラ」であり、国家安全保障・健康医療安全保障・国土強靱化に貢献します。将来、「感染症流行の天気予報」が下水サーベイランスを活用して日常的に行われ、国民の行動変容に繋がる日が来るのも、そう遠い日でないかもしれません。
2026年(令和8年)8月記
【筆者略歴】(やと・よしひこ)東京大学工学部都市工学科卒業。建設省入省。1987年西ドイツカールスルーエ大学客員研究員、その後、京都府下水道課長、建設省下水道部下水道事業調整官、東北地方整備局企画部長、国交省下水道事業課長、国交省下水道部長、日本下水道事業団理事長(公募による選任)、㈱NJS取締役技師長兼開発本部長等を歴任。2022年3月より㈱NJSエグゼクティブ・アドバイザー(常任特別顧問)、現在に至る。他に(一社)日本下水サーベイランス協会副会長、(公財)河川財団評議員等を務めている。技術士(上下水道部門(下水道))。著書に「21世紀の水インフラ戦略(理工図書 書き下ろし)」がある。
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