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連載「水道の話いろいろ」(7)江戸明治の上水

日本の近代水道は、欧米に比べると少し遅れて、明治半ば以降横浜を皮切りに順次スタートしました。それまでは、江戸期に各藩が築いた上水を利用していました。今回は、江戸東京の上水を例にして、江戸明治の上水がどういうものだったかをお話します。

江戸から明治後半までは、町中に木樋(もくひ)という木の水道管が張り巡らされていて、きれいな川の水がそのまま配られていました。木樋はヒノキなど水に強い木をくりぬき、蓋をする面には水漏れを防ぐためヒノキの皮などを挟み、船釘という船大工が使う丈夫な太い釘でしっかりと締められていました。その木樋の水を、上水井戸という、大きな樽を縦に積み重ねた井戸に引き入れます。そして、竿釣瓶(さおつるべ)という、竹竿の先に取付けた桶で、水を汲み上げて使っていました。上水井戸の数は江戸東京中に8000か所もありました。

その元の水は、神田上水と玉川上水です。神田上水は井の頭の湧水を水源とし、神田川の上流部分を利用して、図の赤い枠の地域に木樋で配られていました。一方、玉川上水は、図の左端、多摩川上流の水を羽村堰で取り入れて、武蔵野台地の標高の高い所が連続して続く部分を探し出し、四谷大木戸まで延長43㎞もの水路を掘って、そのあとは木樋で江戸城や皇居を含む、図の水色の枠の地域に配られていました。その標高差は92mで、平均すると10m行って2㎝下るという極めて緩やかな傾斜を43㎞も保ちながら、しかも、たった8か月で造ったということです。驚くほどの高度な技術と熱意です。

まちの中心部を拡大すると、木樋のネットワークが見えてきます。碁盤の目のような神田上水の赤い線や、下の玉川上水の水色の線が、木樋のネットワークです。

また、神田上水が神田川を渡る箇所は、カケトイという橋が架けられていました。この橋は、歌川広重のお茶の水の図に描かれていて有名です。上の橋が神田上水で、下を流れるのが神田川です。水道のための橋なので、今も水道橋の地名でその名が残っています。右に見える建物は見守り番屋で、上水の水量や水質の管理を行っていました。

このほかに水屋さんもいました。上水を上流で桶に汲んで天秤棒で担ぎ、水のないところに届けていました。水1杯を届けて、納豆と同じ値段だったといいますから、重労働の割には安く感じます。

これらの上水は、江戸の初期から明治の後半まで300年近くにわたり江戸東京の発展を支えてきました。しかし、幕末から明治にかけて、開国でコレラが流行したり、木が腐って木樋が老朽化したり、圧力がないので火事を消せないなどの問題が、議会や新聞などで大きく取り上げられるようになりました。

ここに、明治19年に行った飲料水の検査結果があります。まず、さきほどの上水井戸ですが、木樋の老朽化などにより4割が飲用不可になってしまったようです。下の掘り井戸というのは地下水で、こちらは6割が飲用不可でした。いずれも生活排水の混入が原因のようです。

明治19年は東京でコレラが蔓延した年でもあります。コレラによる死者が1万人近くに達しました。玉川上水の水源となっている多摩川上流部でもコレラ患者がでて、東京市民はたいそう心配したようです。当時多摩は神奈川県に属していましたが、東京の水源地で不衛生なことがあっても、東京の警察権が及ばないことが問題となり、結局、明治26年に多摩は東京府に編入されました。

こうして、東京をはじめ日本の各都市で近代水道を造ろうという機運が高まっていきました。

(c)Atsushi Masuko
「上下水道情報」2017号―2024年11月掲載 一部改

ますこあつし
【著者プロフィール】

増子敦(ますこ・あつし)1953年生まれ。博士(工学)。元東京都水道局長、東京水道サービス株式会社代表取締役社長。現在日本オゾン協会会長、日本水道協会監事、YouTubeに「水道の話」を連載。著書に「誰もが知りたい水道の話」。


連載リスト(年月は「上下水道情報」掲載号)

(0)はじめに 2024.5

(1)琵琶湖疏水 2024.5

(2)安積疏水 2024.6

(3)緩速ろ過 2024.7

(4)急速ろ過 2024.8

(5)高度浄水の仕組み 2024.9

(6)高度浄水の開発 2024.10