安積疏水(あさかそすい)は、水に恵まれない福島県郡山の安積原野に猪苗代湖から水を引いて、豊かな水田地帯に変貌させた明治初期の大事業です。郡山市の水道のほとんどはこの猪苗代湖の水です。
猪苗代湖は、磐梯山の噴火でできた、標高500mにある日本で4番目に広い湖です。その水は西側にのみ出口があり、会津地方を経て日本海に注いでいます。この水の一部を東の奥羽山脈を越えて安積原野に持ってくる構想は江戸時代からありました。しかし、トンネル工事が難しく、莫大な財源、会津側の同意も必要で実現せずにいました。
1876(明治9)年ここを訪れた大久保利通は、この構想を聞いて、維新で失職した士族の救済と殖産興業のため、ここで大規模な開拓と疏水開削を行うことを決断しました。
大久保はその調査をオランダ人技師ファン・ドールンに任せました。ドールンは明治初期の8年間にわたり日本の河川や港湾の整備計画をたて、日本に近代土木技術を導入しました。写真は猪苗代湖畔に建つドールンの銅像です。
1878年、ドールンは猪苗代湖の水位を詳細に観測し、湖の水位を1mの範囲で調節することにより、西側出口の水量を確保したうえで東側から新たに水を引くことができると提案しました。湖1mの水量は1億m3もあり、この容量で大雨の時水を貯め、渇水の時にそれを流すというダムの機能を持たせます。
もともと西側出口は狭く大雨のときに湖面が上昇して、湖畔が浸水し、困っていました。そこで、治水対策として出口を広げます。
逆に渇水の時には湖面の水位が下がって西側出口から水が流れず会津側で困っていました。そこで、出口の川底を60cm掘り下げて、水位が下がっても水が流れるようにします。
西側出口には、幅広で1mの水位変動ができるように、16の連続アーチからなる十六橋(じゅうろっきょう)水門を造ります。これで水門操作を行って西側出口の水量を確保します。
この計画は会津側の了解を得て、1879(明治12)年国営第一号事業として着工されました。奥羽山脈を貫く全長600mのトンネルは難工事でした。しかし、ダイナマイトや水をくみ出す蒸気ポンプなど外国の最新技術で乗り切りました。
十六橋水門も完成しました。これは当時の貴重な写真です。大量の水が流れる中を、部分部分締めきって水門をつくっていきます。その苦労の大変さが偲ばれます。水門の上は人も行き来できるようになっています。
会津側からの労働奉仕や全国9藩からの士族移住もあり、水路120kmを含む全工事は3年後の1882(明治15)年に完成しました。これにより安積原野は一大水田地帯に変貌し、後に郡山市のコメ生産高は日本一になりました。安積疏水の成功はその後の琵琶湖疏水などに大きな影響を与えました。
1899年、標高を活かした水力発電もできて、紡績などの工業化が進み、市は発展していきました。
1912(明治45)年には安積疏水を水源として郡山市に近代水道ができました。現在では猪苗代湖から専用の取水塔とトンネルをつくって浄水場に引き入れています。猪苗代湖の水質は現在でも極めて良く、西側の会津若松市の水道でも使われています
明治の初期に、このような大事業がわずか3年で完成したのは驚くべきことです。
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「上下水道情報」2011号―2024年6月掲載 一部改
【著者プロフィール】
増子敦(ますこ・あつし)1953年生まれ。博士(工学)。元東京都水道局長、東京水道サービス株式会社代表取締役社長。現在日本オゾン協会会長、日本水道協会監事、YouTubeに「水道の話」を連載。著書に「誰もが知りたい水道の話」。