連載「水道の話いろいろ」(30)仙台の四ツ谷用水
「杜の都」を育んだインフラ
1. 城下町の拡張と「水」の課題
仙台の四ツ谷用水は、仙台藩の城下町において1629年に給水を開始しました。その名の由来は、城下へ至る用水が「四つの谷」を渡ったことにあるとされています。

関ケ原の戦いの後、伊達政宗は1600年の暮れに居城を仙台と決め、広瀬川右岸にそそり立つ天然の要害・青葉山に仙台城の築城を開始しました。洪水や津波の被害を避けるため、城下町は沿岸の平野ではなく、河岸段丘の台地上に計画されました。

しかし人口が次第に増えると、井戸水では飲用水は何とか賄えても、雑用水や防火用水は大きく不足する事態となりました。そこで、政宗は土木技師の川村孫兵衛(まごべえ)に、「新たに用水を引いてくれ」と指示しました。孫兵衛は、もとは長州出身で毛利氏に仕えていましたが、関ケ原の戦いの後、浪人となっていました。政宗は孫兵衛の才能を見込み、伊達藩の家臣に登用していました。

2. 巧みな地形利用と難工事の克服
城下町の台地は標高約40m、すぐ脇を流れる広瀬川は標高20mと高低差があるため、川から直接水を引き上げることはできません。そこで孫兵衛は、広瀬川をさらにさかのぼり、標高が一気に63mへと高まる郷六の地点から取水するルートを導き出しました。

郷六で取水された水は、西から東へ緩やかに下る地形を利用して城下町へ導かれました。四つの谷を越える区間では、幅・高さともに1.5mの木製水路「掛樋(かけひ)」が架けられ、山がせり出す区間には計330mに及ぶ素掘りトンネルが掘られました。水は城下町で三つの支流に分かれ、最後は北東部の梅田川へと注ぎました。


なお、この取水地点の対岸では、明治期に宮城紡績会社が広瀬川の急流を利用し、日本初とされる水力発電を行っています(三居沢(さんきょざわ)発電所)。取水地点から発電所までの導水延長はわずか1.7kmながら、水は一気に30m急降下します。広瀬川が、この付近でいかに急激に下っているかがうかがえます。

3. 300年以上にわたり街を潤した「浸透」の恩恵
四ツ谷用水は1629年の通水後も拡張を続け、1690年頃には総延長40kmに及ぶネットワークとして完成しました。藩の直轄管理のもとで豊かな水量が保たれ、防火・雑用水のほか、染物や水車などの産業用水、農業用水として、城下町の発展を300年以上にわたり支え続けました。
これは城下町の中心部を描いた絵です。四ツ谷用水が道の真ん中を流れ、所々蓋掛けしてあるだけです。用水が人々の生活にいかに溶け込んでいたかがこの絵でよくわかります。

特筆すべきは、水路の多くが石積みや素掘りであったため、水が地下へ適度に浸透し、周辺の地下水を豊かに涵養した点です。このおかげで地下水の利用が進むとともに、街の木々をも育み、今日の「杜の都・仙台」の原風景を形作ったといわれています。

4. 現代への継承:工業用水道としての復活
明治以降、藩政の終了に伴い用水の管理体制が弱まり、水質も悪化しました。やがて近代的な上下水道の普及とともに水路の多くは蓋掛けや撤去が進み、都市の中から姿を消していきました。
しかし1961年、四ツ谷用水は形を変えて現代に蘇ります。全量が宮城県営の「仙塩(せんえん)工業用水道」の水源として活用されることとなったのです。江戸期と同規模の日量10万m3の取水能力を保ちながら、明治期に新設された四ツ谷堰や本流の水路を活用し、今なお仙台・塩釜地域の産業基盤を支え続けています。

5. 受け継がれる先人の偉業
長らく忘れられかけていた四ツ谷用水は、2015年のテレビ番組「ブラタモリ」での紹介を契機に広く知られるところとなり、翌2016年度には土木学会の選奨土木遺産に認定されました。

さらに2025年度からは中学校の歴史教科書にも掲載されるなど、先人の功績が改めて評価されています。先人の知恵が詰まったインフラは、時代の変化を越えて、形を変えながらも未来へ受け継がれています。

(c)Atsushi Masuko
「上下水道情報」2042号―2026年10月掲載 一部改

【著者プロフィール】
増子敦(ますこ・あつし)1953年生まれ。博士(工学)。元東京都水道局長、東京水道サービス株式会社代表取締役社長。現在日本オゾン協会会長、YouTubeに「水道の話」を連載。著書に「誰もが知りたい水道の話」。