連載「水道の話いろいろ」(28)金沢の辰巳用水
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写真は金沢を代表する名勝兼六園です。兼六園は台地の上にあるにもかかわらず、池の水は豊富できれいです。この水はいったいどこから来るのでしょうか。それが今回お話しする辰巳(たつみ)用水です。辰巳用水は築造から四百年経った今でも兼六園の池の水や農業用水として使われ、金沢市内を潤しています。

辰巳用水は、1632年に金沢城と城下への給水を目的として造られました。完成は江戸の神田上水(1630年)のわずか2年後のことです。この時代に長距離トンネルと高落差の逆サイフォン(伏越)という高度な技術を組み合わせた用水が築かれたのは驚くべきことです。
辰巳という名は、金沢城から見て辰巳(南東)の方角から水を引いたことに由来します。

用水築造のきっかけは、1631年に金沢城下で発生した大火でした。千戸余りの家屋が焼失し、金沢城本丸も焼け落ちました。この絵は江戸期の金沢城下町を描いたものです。

加賀藩第三代藩主前田利常は、金沢城と城下の防火のため、用水築造を決意しました。

金沢城は台地の上にあって、堀はあっても水がない空堀だったため、防備上これを水堀にするのはかねてからの念願でした。

利常は、この大事業を町人の板屋兵四郎に命じます。兵四郎は藩内で数々の用水を築いた天才的な土木技術者でした。金沢には板屋兵四郎を祀る板屋神社と八幡板屋神社があって、兵四郎の偉業が称えられています。

水源は城の南東約11kmにある犀(さい)川上流に求めました。しかし、この付近から下流の犀川は谷筋を流れるため、台地の上にある金沢城へ自然流下で水を送ることはできません。そこで川岸の岩盤に取水口を設け、そこからトンネルを掘って、緩やかな勾配(約200分の1)で水を導くことを考えました。

トンネルは約30mごとに横穴を掘り、その終点から上下流へ約15mずつ導坑を掘り進めて接続した後、導坑の断面を広げていく「先進導坑方式」を採用しました。横穴は人員の出入り、採光、換気、ズリ出し(掘削した土石の搬出)にも利用され、その数は窓を含めて139か所にも及びました。横穴を数多く設けることで掘削誤差を小さくできるうえ、各地点で同時に工事を進められるため、工期の短縮にもつながりました。

これは1800年頃に描かれた辰巳用水の絵です。辰巳用水が犀川から取水され、トンネル部分には多数の横穴の入り口があることがわかります。

トンネル断面は縦横約1.8m、天井はアーチ形で、延長は当初約3.3km、後に約4.3kmまで延長されました。掘削はツルハシやタガネを用いて岩盤を削りながら進められました。その技術には加賀藩や秋田藩の鉱山技術が生かされ、測量技術も当時最先端のものでした。流れる水深は最盛期で0.5~1m、水量は日量約6万m3に達し、当時としては極めて豊富な水量でした。

この絵は加賀藩の鉱山の様子ですが、辰巳用水のトンネル掘りも同じようであったと想像します。

最大の見どころは、兼六園近くの百間堀を越えて金沢城へ送水する逆サイフォン(伏越)です。トンネルを出た水は尾根筋を開渠や暗渠で流れ、百間堀手前で一旦木樋(もくひ:木製の水道管)によって低い位置まで下げ、元の水圧を利用して再び高い位置へ押し上げました。10mを超える高低差を木樋による逆サイフォンで越えた例は、日本初にして最大規模とされています。こうした技術は神田上水の技術的影響を受けたと考えられていますが、その規模は辰巳用水がはるかに上回っていました。

犀川上流の水は、着工からわずか1年足らずで城内三の丸まで到達しました。その後、標高の高い二の丸御殿への送水工事は水圧不足のため難航し、完成はさらに約2年後となりました。水圧確保のため、木樋による逆サイフォンの区間は約2kmに及びました。

念願の城の堀にも水が引かれました。

木樋は長年の使用で腐朽したため、約二百年後には石に円形の孔をあけた石管へと更新されました。円形の孔はろくろで削って、内面はなめらかだったといいます。石管は、長さが約1m、接続部は凹凸に加工され、松ヤニと檜皮(ひわだ:ヒノキの皮)で水を止める仕組みになっています。

明治末期、百間堀の埋立てに伴う橋の建設によって逆サイフォン部分は廃止されました。しかし、それ以外の辰巳用水の大部分は現在も現役で利用されています。

400年前の英知が今もなお金沢を支えている事実に、現代のインフラ技術者も深い敬意を抱かざるを得ません。
(c)Atsushi Masuko
「上下水道情報」2039号―2026年8月掲載 一部改

【著者プロフィール】
増子敦(ますこ・あつし)1953年生まれ。博士(工学)。元東京都水道局長、東京水道サービス株式会社代表取締役社長。現在日本オゾン協会会長、YouTubeに「水道の話」を連載。著書に「誰もが知りたい水道の話」。