連載「水道の話いろいろ」(27)那須疏水
「水なき扇状地」を変貌させた明治の大事業
- NEW
那須疏水は、琵琶湖疏水、安積(あさか)疏水とともに日本三大疏水の一つに数えられます。栃木県北部の不毛の原野だった那須野が原に那珂(なか)川から水を引き、緑豊かな田畑や山林へと変えた明治の大事業です。
那須野が原とは、那珂川と箒(ほうき)川に挟まれた地域をいいます。

現在でいうと、東北新幹線の那須塩原駅や東北自動車道の西那須野塩原インターチェンジ周辺に広がる地域です。

特に奥州街道より山側の地域は、那須連山から流れ出た砂利や砂が厚く堆積した扇状地となっている不毛の原野でした。

山から流れ出る水は地下に浸透してしまい、地上は水無川となって奥州街道付近で再び湧き出します。このため、広大な平原でありながら水に恵まれず、田畑をつくることができませんでした。利用といえば馬草(まぐさ)(馬の飼料となる草)を採る程度で、長い間ほとんど開発されないまま残されていました。


この開拓に立ち上がったのが、当時の栃木県令(現在の県知事)の鍋島幹です。当初は灌漑だけでなく、那珂川から鬼怒川へつなぐ舟運を目的とした「大運河構想」が描かれましたが、これを大きく転換させたのが、後に総理大臣となる松方正義の助言でした。

福島県安積疏水の起工式に出席した帰途にこの地を訪れた松方は、「この広大な平原は欧米型の大農場経営が適している」と指摘し、灌漑事業としての「那須疏水」計画が本格化しました。
地元有力者の粘り強い陳情が実り、1885(明治18)年、那須疏水は国の直轄事業として実施されることになりました。4月に起工式が行われると、わずか5か月後の9月には延長16kmの幹線水路が完成しました。翌年には第一から第四までの分水路46kmも完成しています。

工事には安積疏水で活躍した技術者や石工など150人も加わりました。
取水地点は那珂川の上流部で、川岸の絶壁に穴を開け、トンネルによって水を導きました。水路部分は一日に100mもの速さで掘り進められたといわれます。

工事の最大の難所は、水無川の横断でした。ここでは河原の地下を掘り、水圧がかかっても漏水しない五角形断面の石造トンネルを築きました。水路を一旦地下に下げて川の下を通し、再び地上へ上げる逆サイフォン方式が採用され、その延長は270mにも及びました。

那須野が原開拓の特徴は、大山巌や西郷従道など政府要人が所有する大規模農場を中心に進められたことです。しかし、これらの農場は大正時代から戦後にかけて解体され、小作農に売却されました。現在では、松方正義が開拓した千本松牧場がその名残を伝えています。

那須疏水の通水量は日量約50万m3と豊富で、農場面積に応じて配分されました。その結果、1945(昭和20)年までに水田500ha、畑2,500ha、山林8,000ha、計11,000haが開拓され、不毛の原野が一変しました。

那須疏水は農業用水だけでなく、水道水源としても利用されました。1934(昭和9)年には鳥野目浄水場から黒磯地区への給水が開始され、1973(昭和48)年には千本松浄水場から西那須野地区への給水も始まりました。いずれも現在の那須塩原市営水道の重要な施設となっています。

また、豊富な水量を利用して100基以上の水車が設置され、精米や脱穀などにも活用されました。

那須野が原はその後も貯水池や水路の整備が進められ、全国有数の農業地帯へと発展しました。明治の人々が築いた那須疏水は、地域の未来をデザインした壮大なプロジェクトといえます。

(c)Atsushi Masuko
「上下水道情報」2038号―2026年7月掲載 一部改

【著者プロフィール】
増子敦(ますこ・あつし)1953年生まれ。博士(工学)。元東京都水道局長、東京水道サービス株式会社代表取締役社長。現在日本オゾン協会会長、YouTubeに「水道の話」を連載。著書に「誰もが知りたい水道の話」。