コンセプト下水道 第1回~20回
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(44)第1938号 令和3年3月9日(火)発行 そして、本省で支援体制をどうするかを決めた上で、13日に現地入りしました。支援体制については、被害が東北から関東にかけて広域にわたっていたため、支援本部を岩手、宮城、仙台、福島、茨城、栃木、千葉の7ヵ所に置き、特に東北の支援本部4ヵ所に関しては、災害対応の経験が豊富な名古屋、大阪、新潟、神戸の4市に主導してもらうことになりました。このような“分担制”を敷いた支援は前例がなく、東日本大震災が初めてでした。 初動対応を振り返って思うことは、ハートの“モード・チェンジ”の大切さです。言うまでもなく、地震は前触れもなく、ある日突然起こります。地震が発生したら、それまで関わっていた通常業務を投げうって、災害対応にすべてを集中しなければなりません。そのためには、いかに瞬時に平時から有事に意識を切り替えられるかがポイントになります。「災害発生」の連絡があっただけで条件反射のように反応する人がいる一方で、なかなか今抱えている業務を捨てられず、“モード・チェンジ”できない人もいます。たとえ通常時は優秀な人でも災害対応には向いていません。災害対応にも向き・不向きの人材があると思います。現地の緊張感 東北地方整備局の職員ロッカースペースを空けていただき支援本部の整備を行ったあとに、まず向かったのが仙台市役所でした。ちょうど福島第一原発事故に伴う風評被害が出始めた頃で、現場にはピリピリとした張り詰めた空気が流れていたのを覚えています。新型コロナウイルスが蔓延する今もそうですが、人間の不安な心が流言飛語を生み、パニックを引き起こします。当時も、原発事故関係だけでなく、どこそこの市東北地整の支援本部は職員ロッカースペースに整備した第3種郵便物認可イラスト: 諸富里子(環境コンセプトデザイナー)コンセプト下水道【第19回】その後の人生にも影響 東日本大震災から10年が経とうとしています。本連載では第2回「災害対応 ~「戦術」のコンセプト~」で、国交省の下水道事業調整官として現地の対応にあたった経験をもとに「モノより人」「壊す勇気」などのコンセプトを紹介しましたが、今回は改めて当時を振り返るとともに、今後何が必要なのかも含めて考えてみたいと思います。 私は今、大学の教員を務めていますが、そのきっかけは東日本大震災でした。東北大学の大村達夫先生と知り合い、その縁で同大学において特任教授として学生の指導をさせていただき、さらに博士号を取得することになりました。人とのつながりやその後の人生に影響を与えたという意味でも、私にとって東日本大震災は非常に大きな出来事でした。実は、その5年前に企画専門官として新潟中越地震で発災から災害査定まで一連の対応を半年にわたって担当し、おそらくこれが役所人生で最大の仕事になるんだろうな、と思っていました。まさか、その5年後に東日本大震災を経験するとは……。ただ、新潟中越を経験していたからこそ、その教訓が多くの場面で生きてなんとか対応できたのかな、と思っています。災害対応に向いている人材とは 10年前の3月11日、私は名古屋市にいました。中部経済連合会に招かれ、水ビジネスの海外展開をテーマとした講演会に参加していたのです。大きな揺れを感じたのは、ちょうど私が講演している最中でした。すぐに東北地方の太平洋沖を震源とした大地震が発生したことが分かり、講演も途中で中止に。即、東京に戻ることも考えましたが、首都圏も大混乱の様相を呈していたので、一旦その日は中部地方整備局に詰めるなどして名古屋で一泊し、翌日、国交省に急行しました。東日本大震災から10年~災害対応が人を育て、絆をつくる~加藤 裕之東京大学 工学系研究科 都市工学専攻下水道システムイノベーション研究室 特任准教授

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