コンセプト下水道 第1回~20回
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(40)第1917号 令和2年5月5日(火)発行  下水道事業で言えば、例えば下水処理場を建設する時、臭気や騒音などの問題について、周辺住民に基準値と具体的な数値を示して「安全です」などと説明することがあります。しかし、私も経験しましたが、それだけではなかなか納得してもらえません。「なんでわかってくれないのか?」「必要な施設ではないか?」と、なかなかご理解いただけないことに正直イライラしたものでしたが(若かったことや性格によるところもあります)、今振り返ると、「安全」と「安心」には「すき間」が必ずあり、数値が満足しているから「安全」だと言われても、心が満足する「安心」は得られない。私は、その「すき間」を埋める努力をしていなかった、と今更ながら気がつきました。すき間を埋める鍵は「自分の行動」 安全と安心の違いは分かりました。では、その「すき間」を埋めるにはどうしたらよいのか? 長い間、気にはなっていましたが、やっと、この答えの大きなヒントを教えてくれる人に出会いました。それは、公立はこだて未来大学教授の美馬のゆり先生です。美馬先生とは昨年8月に北海道・函館で開催された市民向けの科学イベント「はこだて国際科学祭」で初めてお会いしました。ただ、その時は「安全と安心」の話題は一切せずに、先生にはビストロ下水道の魅力などをお話しさせていただきました。ところが、今年に入って世の中が新型コロナウイルスで騒然とする中、3月13日付の朝日新聞の北海道版に美馬先生の寄稿「安全で安心な暮らしとは」が載っていることに気がつき、これをじっくり読んで、「なるほど!!」と膝を打つことになったのです。 美馬先生は、まず安全と安心の違いについて、安全は「被害が少ないという現実の状態」、安心は「自分が守られていて大丈夫だと感じる心の状態」と定義し、不安の解消には後者の心の問題が関係していると指摘します。 そして、その「すき間」を埋めるためには、安全に関わる立場にある人(下水道事業で言えば自治体職員等です)が、自分の持つ経験や知識を「わかりやすく」市民に伝えられるようにと指摘されていますが、私が特に感銘したのは、もう1つのポイントです。それは、伝える側(役所)と伝えられる側(市民)の信頼関係の構築のために、伝える側は日ごろから自分が「信頼のおける人」と思ってもらえるような行動をしなければならないということです。安全までは、客観的数値を見てもらえばよい、ただ、安心を得るには、数値で第3種郵便物認可イラスト:諸富里子(環境コンセプトデザイナー)コンセプト下水道【第9回】~その埋め方のコンセプト~  対の関係にある「安全」と「安心」 新型コロナウイルスの感染拡大にしたがって、さかんに“安全・安心”というキーワードを目にするようになりました。この“安全・安心”、かくいう私も国土交通省時代にはあたりまえのように使っていました。頻発する大雨を背景に行った水防法・下水道法の改正の時もそうですし、予算説明資料、そして東日本大震災をはじめ大地震が起こるたびに掲げてきた言葉です。しかし、この「安全」と「安心」という一括りにされた言葉の違いに考えを巡らせることはありませんでした。誰も疑わない政策の決まり文句、それどころか、ほとんど同じような意味だと考えて使っていました。私の知る限り、国交省下水道部内や各種委員会で、この違いについて議論されたことはなかったと思います(宴会の時も含めて……)。 ところが、数年前に、哲学を中心とするリベラルアーツの知識をお持ちの方から「安全」と「安心」の違いについてお話しを聞く機会がありました。そこで初めて、2つの違いを認識したのですが、「安全」は客観的なデータや基準に裏づけられたもので、例えば建物の耐震性能が基準値をクリアしている場合などに使うのがふさわしい。一方、「安全」であれば「安心」と言えるわけではなく、「安心」は多分に主観的・感覚的なもので、そこに住む人たちが安心感を持てるかどうか、心がポイントとなる。つまり、この連載でこれまでお話ししてきた概念で言えば、「安全」は「客観・形式知・目に見えるもの」、「安心」は「主観・暗黙知・目に見えないもの」というように、対義語的な関係にあるわけです。もっと言えば、この2つの言葉の間には「乖離」がある。これを“安全と安心のすき間”と言い換えてもいいかと思います。私は、「安全・安心」と決まり文句のように一言で言ってしまっていたので、「すき間」を埋めることに大きな意義があると気がつくはずもありませんでした。安全と安心の「すき間」  加藤 裕之東京大学 工学系研究科 都市工学専攻下水道システムイノベーション研究室特任准教授

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