コンセプト下水道 第21~38回
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(40)第1950号 令和3年8月24日(火)発行 ておられたようですが、辞めたきっかけは?見山 私は学生時代、体育会準硬式野球部に所属し、ほとんど勉強をせず、社会人になってからも義理と人情だけで営業をやってきたのですが(笑)、仕事で企業のトップの方と話す機会もあり、経営に関する知識不足を痛感することもしばしばでした。そんな中、母校の立教大学でビジネススクールができたので、改めて経営学を勉強し直そうと思い、しばらくは二足の草鞋で大学院に通うことになりました。そこでの勉強が凄く面白く、大学院を修了する時に、ライフワークを持とうと思い、ひらめいたのが「環境」でした。 2005年当時、まだ今ほど「環境」が言われる時代ではありませんでしたが、企業が言う環境、行政が言う環境、NPOが言う環境、この3つのベクトルが合っていないように感じていました。これからはこのベクトルを合わせる必要があるのではないかと思い、最初はそのためのNPOをつくろうと考えました。インターミディアリーと呼ばれる中間支援組織のイメージです。そんな時に、たまたまビジネススクールのゼミ生として一緒だった朝日新聞の方から紹介されたのが音楽家の小林武史さんでした。会ってみると意気投合し、彼が中心となって設立した「ap bank」に金融の専門家として助言してくれないかと頼まれました。最初は銀行の仕事終わりに彼らのプロダクションを訪れて打ち合わせを重ねていたのですが、少しすると「腰を据えて手伝ってほしい」と言われました。どうしようかなと迷いましたが、当時のap bankには環境の専門家はいたものの、金融に詳しい人は自分以外にいませんでしたし、挑戦しようと決心して銀行を飛び出しました。加藤 それにしても、大胆な転職ですね。銀行の中枢のポストをスパッと辞めるのは相当な決断だったと思います。銀行からは引き留められたのではないですか。見山 辞表を出すと人事部に呼ばれました。外資系の金融機関に転職されるのは人事部としても全力で止めようとしていたらしいのですが、当時の上席から「調べたけれど君は転職ではない。これは君の生き方だ。転職は止められるけど、人生は止められない。銀行としても応援するから頑張ってくれ」と言われました。良い銀行に入ったなとしみじみ思いましたね。その後も銀行とは良い関係が続いています。バングラデシュでソーシャルビジネスに携わる加藤 ap bankではどういった活動を?見山 コンサートなどの音楽活動は小林さんや桜井さんたちが中心になって進めていましたが、私は環境活動を行うNPOやベンチャー企業などに対して融資するプロジェクトを担当していました。ap bank時代に融資したことが縁で以来サポートしている、使用済み紙オムツの燃料化技術を開発したベンチャー企業の社長が佐賀市に行くというので同行したところ、偶然にも飲み会で前の席にいらしたのが上下水道局の前田純二さんでした。その社長と前田さんはもともと面識があったようです。前田さんとの出会いが加藤さんとの出会いにもつながったわけですし、振り返ると、私のこれまでの活動はいろんなことが組み合わさり、それらすべてが根っこではつながっている感じがしています。 ap bankには3年程いたのですが、最後の仕事となったのがNHK特集でした。ap bankを退職後、最初に声をかけてくださったのが、その時のディレクターの方で、『SAVE THE FUTURE』という環境問題に関する特番の企画に携われていました。その方から特番のイベントの企画・プロデュースをやらないかと言われ、起業したのが今の会社(㈱フィールド・デザイン・ネットワークス)です。NHKから仕事を受ける際、個人ではなく、会社である必要があったため起業しただけで、成り行きですね。 そんな中、立教大学がバングラデシュのグラミン銀行と提携し、アジアでのソーシャルビジネスを研究する機関「立教グラミン・クリエイティブ・ラボ」を設立しました。グラミン銀行の創設者であるムハマド・ユヌスさんという方が、バングラデシュでソーシャルビジネスを展開するためのパートナーを探したいという目的から始まったもので、金融やビジネス、NPOに詳しい卒業生ということで私に白羽の矢が立ち、ラボの副所長を務めることになりました。銀行時代も含めドメスティックなことしか関わってこなかった私が、ここで初めて海外の途上国とつながりを持つことになりました。加藤 ムハマド・ユヌス博士は、ノーベル平和賞を取られましたね。私も著書の『ソーシャルビジネス革命』 第3種郵便物認可見山先生

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