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▲「奥の細道行脚之図」松尾芭蕉(左)と河合曾良(森川許六作)で活動動向を探れ手に入れたのか▲奥の細道ルート図第3種郵便物認可 俳句を学び、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていた。歳の近かった芭蕉と良忠は主従を超えた友情関係を育んで、お互いに切磋琢磨、やがて芭蕉も北村季吟に師事して俳句をたしなむようになった。 しかし寛文6(1666)年、良忠が若くして急逝。芭蕉は藤堂家を出て江戸に向かった。江戸では当時流行っていた談林派、磐城平藩の藩主内藤義概らと交流した。経済的に困窮し延宝5(1677)年から4年間、神田上水の水道業務に従事したが夢叶わず。弟子の河かわい合曽そ良らを伴って「奥の細道」の旅に出発したのは元禄2(1689)年、45歳の時であった。1)芭蕉の足腰の強さは忍者だから 江戸時代の平均寿命は32~44歳(寿命図鑑より)なので、脅威的な行動力の源泉は忍びの者として鍛えた肉体と精神力があったのであろう。奥の細道では、5ヵ月間で600里(約2400km)を踏破。日記から一日で40km歩行した記録もある。「年齢の割に健脚なのは、忍者だからに違いない」と芭蕉忍者説を後押しする声もある。だが反対派は「車も電車もない江戸時代の人々にとって、一日40km程度は何でもなかった」と主張する。2)上級忍者は俳諧師や僧侶の姿 普通の忍者は映画に出てくるように黒装束で屋根裏や床下に潜み、会話を聞き取ることが求められた。伊賀の忍術書には「俳諧や茶の湯で名をあげよ」という教えがあり、これが上級忍者である。各藩の殿様や旗本に直接面談ができ、大名屋敷内でトップから活きた情報収集が可能であった。3)特別ミッション……伊達藩の 江戸幕府は有力な外様藩「伊達藩」の財政力をそぐために、日光東照宮の修繕を命じた。その修繕は、3年の月日と莫大な費用がかかることから、伊達藩は謀反を起こすのではないかと警戒していた。事実、伊達藩は修繕費用の調達で約500億円の借金を抱え、藩士の給料は3割削減され、一歩間違えれば、謀反が起きかねない緊迫した状態であった。その情報収集ミッションで芭蕉は伊達藩内に13泊と長期滞在している。松島のような名勝地ばかりではなく、伊達藩の経済を支える多くの金鉱山にも立ち寄っている。これまた隠密行動を裏付ける状況証拠でもある。さらに隣国、米沢藩の「紅花(べにばな)の製造技術と生産量」を探るために尾花沢の紅花問屋に10日近くも滞在している。これも不思議な動きであった。4)旅の資金と手形はどうやって 幕府の命を受けた隠密だからこそ、諸国を自由に動き回れたのである。資金は幕府から支給金と、 第1959号 令和4年1月11日(火)発行(43)行く先々で俳句を教え、地元の君主からの授業料(献金)で、賄っていたものらしい。 手形は、多くの関所をフリーパスできる江戸幕府発行の特別通行手形(滞在期間や訪問先の指定無し)を所持していた。関所の役目は、①江戸防衛の軍事的な機能、②治安警察的な機能、③大名家族(参勤交代)の江戸滞在義務履行の監視役などをあわせ持っていたとされている。商人や庶民には、滞在期間や目的地が明記された通行手形だが、芭蕉と曽良には、特別通行手形が発行されていた。さいごに 松尾芭蕉は、なぜ旅に出たのか。様々な説があるが、江戸時代の人生は50年といわれており、たぶん芭蕉は、関西文化圏の伊賀上野から「みちのく」を未知のかなたの国と見ていた。万葉時代から「みちのくは歌枕の宝庫」であり、亡くなるまでに、自分の夢を叶えたいとの思いが旅に駆り出させたのではないだろうか。 芭蕉はみちのく旅の後、大阪にて元禄7(1694)年、51歳でこの世を去った。有名な辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」は、旅を愛してやまない松尾芭蕉の生涯が偲ばれる名句となった。

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