SEWグローバル・ウォーター・ナビ 俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が故郷の伊賀上野(忍者の里)から江戸に出てきたのは、寛文12(1672)年、彼が29歳の時のこと。日本橋小田原町の名主、小澤卜尺の家に世話になり水道工事の業務をしながら俳句を作っていたが、水道業務の才能なしと悟り、深川芭蕉庵にこもった末に「奥の細道」の旅に出たというのが定説であった。だが、実は芭蕉は幕府の隠密であったという説も多く語られている。水道に係わる話なので、少し深堀りしてみたい。1.芭蕉は水道屋であった 芭蕉はどのような立場で神田の水道工事の業務に就いていたのだろうか。諸説が流布している。◦ 芭蕉は普請奉行で水道工事全体を指揮していた(武江年表)◦ 芭蕉は水利の才能があり、水道工事の設計に当たっていた(桃青伝)◦ 水道工事事業の官吏だった(梨一の芭蕉翁伝)◦ 水道工事用に各地から集められた、単なる雇われ労務者(俳家奇人談) 偉大な俳人芭蕉が、単なる雇われ労務者では可哀想だが、その当時の喜多村信節の随筆には「芭蕉が江戸に来て本船町の名主小澤太郎衛(ト尺)が許に居れり、日記などを書かせるが多く有りし」と(42)第1959号 令和4年1月11日(火)発行 ある。つまり芭蕉には帳簿付けの才能があり、それが認められ小澤ト尺の許で神田上水の管理業務に従事していたことが推測されている。 芭蕉が神田にいた頃は神田上水が完成してから既に50年以上経っており、大きな水道木管や暗渠などの布設の仕事はなく、小口の新規配管工事や木枠や竹でできた配水管(主に木樋)の修理仕事がメインであったと思われる。 江戸の水道料金は、利用者から「水銀」(みずぎん)として、武家屋敷からは石高割で、町方からは屋敷の間口に応じて徴収されていた。維持管理に係わる水道工事代金は武家屋敷と町人(地主)で負担するために、かかった人工や材料費を細かに記録することが必要であり、そこで芭蕉の帳簿付けの才能が活かされていた。 芭蕉が水道業務に係わった期間は、およそ4年だったらしい。「許六の風俗文選」によると「世に功を残さん為に、小石川の水道を修め4年になる。速に功を捨て、深川芭蕉庵に入り、出家す」とある。つまり水道業務で功を成し遂げることは叶わず、出家し俳句の道に入ったのであろう。このような芭蕉の水道に関する職務経歴を踏まえて、彼の作品を読むと興味深い。では、芭蕉の代表作を水音と水量から見てみよう。◦ 古池や蛙かわず 飛び込む 水の音◦ 初時雨 猿も小蓑を ほしげなり◦ ほろほろと 山吹散るか 瀧の音◦ 暑き日を 海にいれたり 最上川◦ 五月雨を 集めて早し 最上川 (日本三大急流の一つの最上川は、降り続く五月雨を集め、まんまんと水をたたえ、凄い勢いで流れている) 水道人の芭蕉にとり、最高の水源と見ていたのであろうか。最後は次の一句である。◦ 荒海や 佐渡に横たう 天の川 (荒れ狂う日本海を臨み、天を仰ぎ見るとそこには光輝く天の川が佐渡の方まで伸びて横たわっている) 地上の荒海と、天空の天の川と対比させる雄大な構図をしめす俳句であろう。 このように芭蕉は、江戸時代を代表する俳人であった。2.芭蕉は幕府の隠密であった 芭蕉は忍者の里で知られる伊賀の国に生まれ、百地丹波(ももちたんば)の子孫で、忍者の血を受け継いでいる。伊賀の国で成長し、当時伊勢や伊賀を治めていた藤とう堂どう高たか虎とらの流れを汲む藤堂良よし忠ただに仕える。良忠は松永貞徳や北村季吟に▲松尾芭蕉像(葛飾北斎画)第3種郵便物認可松尾芭蕉は水道屋、それとも幕府の隠密か吉村 和就[グローバルウォータ・ジャパン代表 国連環境アドバイザー]80
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