▲サダム・フセイン (1979年、大統領に就任)150万人以上のイラク国民は、安全な水が無いために腹痛、下痢に罹患、乳幼児死亡率増加。第3種郵便物認可 国際河川であり、トルコが源流で、シリア、イラクを流れている。その長さはチグリス河が2900km、ユーフラテス川が1970kmであり、当然、流路が長いと汚染される機会が多い。米国国防省の秘密ファイルでは、両河川とも通常時は病原性汚染水が多く、渇水時は塩分濃度(1500-2000ppm)に達することがあると指摘している。1)水と石油は国家なり 世界のならず者と呼ばれたイラクのサダム・フセインの日課は水泳と水浴びで、すべての王宮にプールと滝やジャグジーが備えられていた。用心深いサダム・フセインは、毒殺を恐れ、毎日複数の検査員に水質検査をさせていた。 彼の主張は「国(イラク)の統治は水だ」として、当時の国民2200万人のうちフセイン政権に隷属する1300万人に「水と食料の無料配給制度」を作り独裁政権を維持した。決して秘密警察と市民弾圧で、国民を統治していたのではない。決め手は水であった。 サダム・フセインは、「水と石油は国家なり」として水資源の確保に邁進した。1980年代、豊富な石油収入で積極的に水道システムを整備した。その結果1960年代に比べ、幼児死亡率は1/3に、全国民の約7割に安全な水道水を供給できるようになった。浄水場の能力は約3倍となり、水処理機器はほとんどが米国からの輸入品であった。1980年9月、隣国イランがイラクの水力発電所ダムを破壊したことにより、第一次イラン・イラク戦争が勃発したが、1988年に国連の安保理決議を受け入れ停戦を迎えた。その後サダム・フセインは、さらに水道建設に力を入れ、主要都市200ヵ所以上に浄水場を建設。遠隔地には1200台以上の小型浄水装置を設置し、山岳地区には給水車(トラックウォーター)を配備、その結果9割近くのイラク国民が安全な水にアクセスできるようになった。2)イラク軍のクウェート侵攻 (1990年8月) サダム・フセインは敵国イランを積極的に支援したクウェートに侵攻、奇襲攻撃を仕掛けた訓練さ▲イラク戦争:2003年3月20日~2011年12月15日(8年8ヵ月) (写真出所:USAID(アメリカ合衆国国際開発庁))国連・安保理の決議なくして攻撃開始「イラクの自由作戦」の名でイラク武装解除問題、大量破壊兵器保持の疑い?を理由とする軍事介入(第二次湾岸戦争とも)軍事施設、通信施設、浄水施設、王宮を再び狙い撃ち(GPS付きミサイルで完璧な破壊) 第1958号 令和3年12月14日(火)発行(31)れたイラク軍は、わずか20時間でクウェートの軍隊を粉砕し、クウェート全土を制圧した。侵攻の理由は「クウェートによるイラク石油資源の盗掘」退治であったが、裏の目的はクウェートの有する最新鋭の海水淡水化装置の水の確保でもあった。国連安保理決議(第660号と661号)は、イラク軍の即時撤退の要求と、経済制裁を開始し、翌年1月15日までにクウェートから撤退しなければ、壊滅的な結果を招くと警告を発した。3)湾岸戦争勃発 (1991年1月17日~42日間) 国連の求めにより、「34ヵ国による多国籍軍(42万人)」が構成され空爆を開始、2月23日からの陸上戦によりイラク軍はクウェートから完全撤退した。さらに多国籍軍は、その矛先をイラク国内に向けた。徹底的な空爆「砂漠の嵐作戦」で軍事施設、通信施設、橋、道路、浄水場、パイプラインなどが徹底的に破壊された。本来ならばジュネーブ協定(第54条)で「戦闘中であっても浄水施設の破壊を禁止」とする国際協定違反であっ
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