GWN51-96
56/102

SEWグローバル・ウォーター・ナビ 毎日のように、多くのマスコミでSDGs(持続可能な開発目標)が取り上げられている。筆者は2000年当時、国連ニューヨーク本部職員で、このSDGsの基になるMDGs(ミレニアム開発目標)の環境部門のチームに参画していたので、隔世の感がある。2000年に宣言されたMDGsは「主に途上国の開発問題が主で、先進国がそれを援助する側」という位置づけであり、大きなうねりにはならなかった。しかし2015年に国連から提唱されたSDGsは「開発の側面だけではなく、社会・経済・環境の3側面すべてに対応し、先進国も途上国も含む全世界の目標として掲げられており、世界的な大きな動きとなっている。 ご承知の通りSDGsには17の目標項目があり、その具体策として169の達成基準が述べられている。その中身を見ると、かつて日本が経験し乗り越えてきた項目が多いことに気が付く。特に江戸時代は究極のSDGs「持続可能な循環型社会」であった。主な事由は次の通りである。① 鎖国政策により海外から資源の輸入がなかった江戸時代は、暮らしに必要な物資の大半を植物資源に依存していた。家は木材、畳はイグサ、夜の明かり「行灯の油」はごま油や菜種油であった。稲作、野菜作りは言うまでもなく、醤油・味噌、塩もすべ(32)第1956号 令和3年11月16日(火)発行 うわて自前であった。② 徹底した資源循環社会、例えば着物は帯や小物を組み合わせてお洒落を楽しみ、親子三代、何度も着回し、ほつれや擦り切れが目立つようになると、おむつや雑巾としてリサイクルされ、最後はかまどや風呂などの燃料として使われ、その灰も陶器のや農業用肥料として活用さ釉れた。捨てるものは一つもなかった。 薬③ 修理屋が活躍した時代であった。刃物直しは勿論、茶碗など陶器を修理する焼き接ぎ屋、傘修理、提灯張替え、鏡研ぎ屋など修理の専門職が庶民の暮らしを支えていた。④ 世界に誇れる江戸時代の糞尿処理は究極のSDGsであった。現代のように化学肥料などなかった江戸時代、糞尿は貴重な金肥となり、人⼝100万人を誇った江戸の大名や庶民の暮らしを支えたのであった。1.糞尿による資源循環経済 その当時世界一の人⼝を誇った江戸は、排泄物量も世界一であった。下水道が完備されていない江戸では糞尿の汲み取りが、人に知られない、大きなビジネスであった。現金収入を野菜に頼る江戸近郊の農家は、いかに栄養分がリッチな糞尿を集めるかが決め手であった。食べ物に贅沢な大名屋敷ぐすりに入り込み、果ては汲み取り権を持つ長屋の家主との関係を構築した。その営業方針、最初は野菜や作物、沢庵などを対価に、汲み取りの権利を確保していたが、江戸時代後半では、野菜売り上げの金銭が対価となった。なぜなら野菜を作れば作るほど、現金が流れ込むように江戸人⼝が急拡大していたからである。江戸城内の汲み取りの権利は葛西の百姓が持っていた。城内はフリーパスであり、将軍以外の男性立ち入り禁止区域、すなわち大奥まで堂々と入り込み、汲み取りを行っていた。江戸城で汲み取った糞尿は堀を使い船で葛西まで運搬し、「葛西舟」を保有する豪農が誕生したのだ。 幕末期には、汲み取り専門業者が現れ、過当競争で糞尿の引き取り価格が高騰し、それが野菜の値段にはね返り、ついには町奉行所に江戸庶民から嘆願書が出され、糞尿取引価格は幕府の管理となり、適正な価格を維持させたのであった。2.糞尿のランク付けと   ブランド肥料 糞尿は当然ながら、食する人々の身分による食べ物の種類や量に比例する。① 特上「きんばん」と呼ばれる糞尿は、幕府や大名屋敷の勤番者のウンコで、栄養価も高く一番人気であった。当然のことながら、その獲得には熾烈な戦いがあった。② 上等「辻肥」は街角にある、いわゆる公衆便所(辻便所)から汲み取った糞尿で、商人、武士が利用し比較的栄養価が高かった。この辻便所は幕府が設置したのではなく、江戸の人⼝が急増し近汲み取りの下肥需要が高まり、江戸周辺の農民が下肥収集手段として設置した。使用料は無料であったが、汲み取りが第3種郵便物認可江戸の糞尿処理は究極のSDGsだった吉村 和就[グローバルウォータ・ジャパン代表 国連環境アドバイザー]78

元のページ  ../index.html#56

このブックを見る