SEW1.東京水道も渋沢栄一で加速 明治半ばでも、江戸時代からの上水施設や井戸に頼っていた東京市。人口の増加に備える為に、明治7年近代水道(圧力を持つ殺菌された水供給)の計画が持ち上がったが、資金不足や議論百出で決まらなかった。業を煮やした渋沢栄一は「東京市の公衆衛生の為には何としても水道を完成させなければならぬ。市に自営の意思がなければ、私が私財を投じて会社を組織して水道事業をやる」と強い意志を示した。明治19年、東京ではコレラが蔓延し、市民1万人近くが命を落としたが、それでも東京市は動かなかった(『実験論語処世談』※より)。渋沢はなぜ、これほどまでに公衆衛生に拘ったのか。明治15年7月に、先妻・千代をコレラで失っていたのだ。1)東京水道会社設立 明治20年、耐えかねた渋沢栄一は47歳の時に「東京水道会社」を設立し、英国人陸軍将校のヘンリー・スペンサー・パーマーに調査設計を依頼した。 しかし、そのパーマーは、その前に横浜市から近代水道の調査設計を依頼され、横浜水道は早々と着工(明治18年)し、明治20年、日本で最初の近代水道を通水したグローバル・ウォーター・ナビ 明治から大正にかけて活躍し、「日本資本主義の父」と呼ばれた実業家、ご存知の渋沢栄一。その生涯で約500企業の創設と運営に関わり、約600の社会事業に携わった。彼が生涯をかけて追い求めたのが「道徳経済合一」の理念である。渋沢は私利私欲ではなく公益を追求する「道徳」と、利益を求める「経済」とが、あらゆる事業において両立しなければならないと考え、実業家としてキャリアを積む中で一貫して実践し続けたのだ。 渋沢栄一の実業家時代の活躍は、既に多くの書物で語られている。例えば銀行の設立である。自ら設立した第一国立銀行をはじめ地方に設立された多くの国立銀行を指導し、現存する銀行のルーツは殆どが彼の足跡である。 事業会社では、製紙会社(現:王子ホールディングス、日本製紙)の設立や石川島平野造船所(現:IHI、いすゞ自動車)に対する個人出資や銀行を通じた創業支援、社会インフラ関係では、東京ガス、東京電力、鉄道事業会社の設立や、その経営に関わった。 渋沢の実践した数ある事業の中で、ほとんど知られていないのが社会インフラである「水道事業」への関わりである。▲渋沢栄一(1840~1931年)(34)第1950号 令和3年8月24日(火)発行 のであった。一方、渋沢に背を叩かれた「東京市区改正委員会」は、ついに重い腰を上げ明治21年10月に英国人技師ウィリアム・バルトンに設計を依頼し、計画策定に乗り出した。公益である水道インフラ整備を急ぐ渋沢は、明治21年12月、東京府知事あてに「水道会社設立」を出願、その提出書類は明日からでも事業開始が出来るほど、設計案、給水規則、収支予算など詳細にわたっていた。一方、改正委員会から依頼されていた対抗馬・バルトンは、急遽2ヵ月で設計案をまとめ、同じく明治21年12月に最初の設計図を委員会に提出した。 この両案に対し、改正委員会は判断できず、外国人技師である①ベルリン市の水道局長ギル氏、②ベルギーの水道会社技師長クロース氏に依頼したが、2人は、それぞれ独自の主張を展開し、さらに水道計画は混沌とした。 結局、明治23年バルトン氏が3人の主張の“いいところどり”をした。小石川と麻布の2ヵ所に半地下の給水所(貯水槽)を設置し、東京市内の標高6mラインを境界線として西側の高区には蒸気ポンプで直接配水、東側の低区には給第3種郵便物認可渋沢栄一翁 ~東京水道物語~吉村 和就[グローバルウォータ・ジャパン代表 国連環境アドバイザー]75
元のページ ../index.html#49