GWN51-96
28/102

池椋第3種郵便物認可 ▲霞堤(信玄堤)の構造と働き  (出所:国土交通省国土技術政策総合研究所HP)防止だけではなく、氾濫時に低内地に持ち込まれた土砂の農業利用である。洪水で運ばれる土砂は、上流の山林で形成されたものであり、化学肥料の無い時代は、最高の肥沃土壌であった。しかし洪水時には上流から木材や草木など、あらゆる夾雑物が同時に低内地に流れ込む恐れがあり、それを防ぐために、低内地に流れ込む開口部に、ひめ笹、竹、松、杉を植え、すくすく育った竹林や杉林は除去スクリーンの役目を果たし、夾雑物はそこに留まり、やがて腐食発酵し、将来の有機肥料となったのである。 日本古来の霞堤は、持続可能型エコロジーの特徴を有する治水法として世界で再評価されている。2)豊臣秀吉 秀吉の凄さは観察力と仕事の段取りの完璧さであった。治水に関して、自然状況を自ら観察、水害の歴史をその地域の古老から聞き取り、万全の体制を整えた。その原点は「高松城(いまの岡山県)の水攻め戦法」にあったと言われている。高松城の周りは深い沼地で軍を進めることが不可能であった。段取りの得意な秀吉は、農民から俵を2百文、コメ一升で土俵を驚異的な速さで集め、城の西南に長い土手を築いた。急ぐ訳は雨季が迫っており、この時期を逃すと長期戦になる可能性があった。2800mの土手はわずか12日間で完成、川を堰き止め堤を切って水を城の方に流し込んだ。高松城は水攻めで孤立し、1ヵ月後に和議を結んでいる。土手に使った土俵数は635万俵であった。 さらに秀吉は流域全体の総合治水として、文禄元(1593)年より巨お(京都)や淀川の改修、太閤堤など、治水による城下町の総合都市開発を数多く手掛けている。3)徳川家康 家康の治水事業では、江戸を洪水から守るために、利根川の流れを江戸から、千葉の銚子へ変えた「利根川の東遷」が有名であるが、実は家康は信玄の影響を強く受けた「治水おたく」の一人でもあった。 駿府(静岡市)に巨大堤防を構築し、さらには暴れ川で有名な安倍川に、信玄の霞堤に習い、強い流れに逆らうことなく、幾つもの堤を作り、その西側にある藁科川と合流させ氾濫を防いだ。 江戸時代に築堤された薩摩土手(天下普請で島津藩が施工)は、日本が世界に誇れる築堤技術であった。しかし、明治時代に西洋の築堤方式(切れ目のない頑丈な堤防)を真似て改築された薩摩土手は、大正3(1914)年、静岡を襲った大洪水で18ヵ所が破堤し、大きな被害をもたらした。逆にフランスではアルプス山脈からの急流制御ぐらいけ第1926号 令和2年9月8日(火)発行(35)に信玄堤を採用し洪水を防いでいる、皮肉なものである。 家康は築堤後の先もよく考えていた。それは堤防が出来た後は、庶民に堤防を守らせるというポリシーであった。土手は土で作られているので、当然、大雨や梅雨の後は、しっかり踏み固める必要があった。 江戸で最初に出来た「日本堤」の先には、日本橋人形町にあった遊郭「吉原」を移転させ「新吉原」にした。江戸人口の男女比は1.8対1で男の半分は独身であった。稼ぎがあり、宵越しの銭を持たぬ江戸の男たちは、この日本堤(吉原土手)を踏みしめながら喜んで遊郭に通ったのであった。また隅田堤では、桜を植えて花見の名所にし、春には沢山の江戸っ子が堤防を踏み固めたのであった。勿論堤防の近くには神社を作り、必ず堤防の上を通り参拝ができるようにした。さいごに 治水名将は、「自然災害には勝てない、堤防を築いても、必ず破堤する。その被害をいかに少なくするか」ということに命を懸けていた。 現在の堤防の99%は戦国時代から江戸時代の遺構の上に作られている。今では国民の半数、また資産・財産の75%が「洪水氾濫区域」に集中している。つまり武将が「川が溢れるから、そこに住むな!」と命令した危険な地域で高密度に暮らしているのが日本の現状である。現在の治水対策は、ダムや壊れない堤防造りに専念しているが、地域経済を活性化させる治水はどうあるべきか。もう一度、治水名将に学び、持続可能な総合治水を創出する時期に来ている。

元のページ  ../index.html#28

このブックを見る