SEWグローバル・ウォーター・ナビ 戦国時代から江戸時代にかけ、武将はとにかく稲作面積を広げ、一粒でも年貢米を増やすことが戦に勝つ最大の武器であり、かつ地域経済の活性化であった。しかし新たに開発された耕地は、もともとが低湿地、あるいは台地であったため、洪水や干ばつの被害を受けることが多く、治水対策が幕府や各藩にとっても大きな社会的・政治的な課題であった。江戸幕府は51ヵ所の天領(幕府の直轄地)から約400万石(享保年間)の年貢米を取りたてたが、他の200近い藩からは年貢米を取りたてせず、各藩の財政基盤とさせた。従って各藩主は領地内あらゆる川に堤防を作りまくり、同時に灌漑用水路を整備した。藩の治水計画は、まずその地域の古老から過去の自然災害の状況を聞き取り、戦国期からの軍事用途で開発された土木技術(築城、築堤、道路建設、鉱山採掘など)を活用したのであった。だが、どんな土木構造物もメンテ無しでは成り立(34)第1926号 令和2年9月8日(火)発行 ▲大名の配置(1664年)(出所:世界の歴史マップ)たない。田畑を持つ本百姓を核に「5人組」・連帯責任制度を作り水防工事の義務を課している。1.治水の区分けは幕藩体制で 江戸初期には、全国で約260の藩大名の領地は太閤検地で用いられた領地区分(山・川の自然環境で定められた境界)が継承され、言葉を換えれば分水嶺の領地の中での水循環をいかに実行するかであった。各藩は年貢米増収のために、河川改修や用水路の整備を積極的に行った。川の氾濫地域は最高の新田開発の候補地でもあった。さらに河川改修は舟運による地域経済の活性化、また江戸や大阪までの年貢米・大量輸送の決め手であった。地方の藩主にすれば、参勤交代だけしっかりやれば、あとは領地内の水資源を活用し藩経済をいかに高めるかであった。今の日本、人口減少化においての今後の治山治水計画は、歴史ある幕藩体制のミクロな地域区分を参照し進めるべきである。2.名将による治水1)武田信玄……霞かすみ 堤てい 戦国時代の名将武田信玄が考案(諸説あり)したと言われている霞堤(信玄堤)は、堤防のある区間に開口部を設け、上流側の堤防と下流側の堤防が、二重になるように配置された不連続な堤防である。洪水時には、切れた堤防から水が逆流し、低内地に冠水させ、下流に流れる河川流量を減少させる。洪水が終わると低内地に滞留していた水は、川の流れに吸引され排水される。急流河川の治水として、極めて合理的な機能を有している。農民は氾濫する堤内に住むことを禁じられていた。 治水名将の凄さは、単なる洪水第3種郵便物認可武将に学ぶ治水対策吉村 和就[グローバルウォータ・ジャパン代表 国連環境アドバイザー]64
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