第3種郵便物認可 械による施工であった。また物資輸送や人員輸送のためにベルギー製の蒸気機関車12台を導入、工期の短縮を図った。台湾総督府から「金がかかり過ぎる」とクレームが来た。当然である、台湾総督府の年予算5000万円を超えたのが烏山頭ダム予算(5400万円)であった。 しかし八田はダムの早期完成によるメリットとして、①工事が長引けば15万haの土地は不毛のままで金を生まない、早ければ早いほど金(農作物)を生み出し台湾と日本の食料事情を改善する、②購入した重機械は、他の工事でも使える、そして機械を使える人間が育ち、日本にも土木機械を作る会社が生まれる、などを熱く語り、粘り強く説得したのであった。 ダムの築堤に当たっても独創性が発揮された。堤中心にコンクリートを打設し、その周辺に積み上げた粘土と土砂に高圧水を噴射、内部にしみ込んだ粘土層により遮水する「セミハイドロリックフィル工法」を採用した。これも世界に例を見ない大規模の築堤工事であった(堤全長1273m、堤高56m)。◦ 大きな人の輪つくり…工事現場に家族用宿舎や学校、病院、駅を建設 與一は「良い仕事は、安心して働ける職場環境から生まれる」と工事現場に家族宿舎(約200棟)や病院(健康診断、工事中のケガ対応、マラリア蚊対策)、共同浴場、子供たちが学べるように学校も建設。さらに働く作業員のために娯楽設備、商店、駅までつくった。最盛時には作業員2千人が工事に従事したと言われ、與一は日本人、台湾人を差別することなく「大きな人の輪」で難工事を遂行した。3.灌漑用水路建設…水路延長 嘉南平野は台湾の中でも広い面積を持っていたが、灌漑が不十分で、この地域の15万ha(香川県の面積程度)の田畑は常に「干ばつ・洪水・塩害」の危機にさらされ、もちろん安全な飲み水にも事欠いていた。烏山頭ダムと灌漑用水路の完成により、嘉南平野はわずか3年で台湾最大の穀倉地帯となり嘉南の農民の生活を一変させた。八田與一の功績は嘉南60万の農民の心に刻み込まれ「嘉南大しゅう(水路)の父」と呼ばれるようになった。つまりアジア最大のダムと灌漑用水路を早期に完成させるために、與一は全知全能を傾けたのであった。4.八田與一記念公園区(台南市) 昭和21(1946)年12月15日、嘉南の農民たちにより八田與一夫妻の墓がその地に建立された。平成13(2001)年には「八田與一記念 第1871号 平成 30年7月3日(火)発行室」が完成、そして平成23(2011)年5月8日、記念公園区のオープンには馬英九総統、日本から森喜朗元首相、八田氏の遺族を含め台湾全土から多くの人々が参列し、八田與一の功績に感謝の意を捧げた。記念区の中には、烏山頭ダム建設時の宿舎(4棟)が再現されている。5.ダムを守り続ける台湾の人々 筆者の訪れた5月10日は、普段は公開されていない湖底の導水管隧道の見学も許され、ダム管理の責任者である陳政聡所長の案内でダム内部を視察、今から100年前に設計、施工された導水管(直径2.7m、2条)の素晴らしさに感動した。陳所長は「我々の使命は、八田與一が台湾のために建設してくれた、このダム施設を守り続けることです」と語ってくれた。記念公園区の入り口には、台湾の人々から敬愛されている八田與一に因み「八田路」の道路標識が掲げられている。こうした八田の功績は、日本人は忘れてしまったが、しかし台湾人は100年の時を超えても忘れず毎年、八田の慰霊祭を開いている。これに限らず台湾に渡った日本の先人による歴史的な営み(教育制度、インフラ構築など)を、いまだに高く評価してくれる台湾の人々の心に感動し、感謝したい。ベルギー製の小型蒸気機関車大正9(1920)年~昭和5(1930)年に敷設された送水鋼管陳政聡・ダム管理所長(左)と筆者1万6千km
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