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SEWよ一た田與山頭グローバル・ウォーター・ナビ 八。土木水利関係者なら誰でも知っている人物である。明治43(1910)年、東京帝国大学工学部を卒業し日本が統治していた台湾に渡り、衛生事業、上下水道の整備、さらに発電・灌漑事業を推進、特に八田が力を入れたのが、大正9年から10年間かけて完成させた、「烏うダム」と嘉南平野の灌漑用水路である。100年の時を超えて台湾の人々に愛される八田與一を紹介したい。1.台南市で没後76年記念慰霊祭 八田與一没後76年記念慰霊祭が命日(5月8日)に合わせ烏山頭ダムで挙行された。昨年は不幸な出来事(銅像の頭部が切断されたが、台湾の関係者の懸命なる努力で修復し、命日に間に合った)があり、今年は厳重な警戒網がひかれた。 約300名の参列者を代表し、頼清徳・行政院長(日本の首相に当たる)が献花を行った。その挨拶の中で頼院長は「1930年に完成したアジア最大の烏山頭ダムにより、雲林、嘉義、台南地区の水田灌漑が整備され、米の生産量が大幅に引き上げられ農民に大きな恩恵をもたらし、台湾の経済発展を助けた。また台南市は昨年末から雨量が少ないが、この烏山頭ダムのお蔭で水田への灌漑や民生の水不足第1871号 平成 30年7月3日(火)発行 いちはっさんとうなどの問題が解決されている、台湾国民および台南市民は70年以上にわたり、心から八田氏の貢献に感謝している」と述べた。 この日、台南農田水利組合、農業関係者など多くの人が銅像の前に花を手向け、八田與一を偲んだ。慰霊祭には日本訪問団として孫の八田修一氏ら親族および八田與一の出身地である金沢市の丸口邦雄副市長も駆け付けた。烏山頭ダムを望む八田與一の銅像の周りは多くの献花で美しく囲まれていた。第3種郵便物認可烏山頭ダム 旧放水路烏山頭ダム 堤防献花で囲まれた八田與一の銅像2.アジア最大の烏山頭ダムの建設方法 大正の初め、現在のような大型建設機械が全くない中で、貯水容量1億5千万m3と言われる巨大ダムをどうやって造ったのか。八田與一・弱冠30歳は独創の人であった。そのスケール感の大きさ、発想のユニークさ故に「大風呂敷の八田」というあだ名もあったが、このダム工事でも、その独創性が遺憾なく発揮され、誰も考えなかった手法が多く採用された。◦ 世界最先端のハイテク土木機械を導入 今から100年前、土木工事は、とにかく人力であった。人力では時間がかかり過ぎる。八田は、まず米国に飛び米国製大型土木機械を導入(パワーショベル7台、エアーダンプカー100台、巨大ポンプ5台など)。もちろん日本初の重機吉村 和就[グローバルウォータ・ジャパン代表 国連環境アドバイザー]38台湾で愛される日本の土木技師・八田與一

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